すっかり日が短くなったうえに、いつもより更に遅くなってしまったせいで、空はすっかり暗くなってしまった。あと1回は遊べるね、なんて言って、しかもその最後の1回が、意外と長引いてしまった結果である。
「じゃあね、また明日」
「またね、ばいばい」
幼馴染みに挨拶をした後、少年はいつもより暗い道を帰っていた。早く帰らないとしかられるかもしれない。そう思って少年は、少しだけ歩く速度をはやめた。しかし、その足は急に止まった。
突然、胸を激しい痛みが襲ったからだ。今まで経験したことのない痛みに泣きそうになりながらも、少年は小さい手で胸のあたりの服を握り締めた。
「助けて」
そう声に出してみても、ますます胸の痛みは強くなっていく。痛みに顔をゆがめると、自然と目も閉じていくような感覚になる。絞り出した声は小さすぎて誰にも届かない。暗くなった夜に飲み込まれるように、少年の意識も朦朧としてきた。
暗い闇の中で、男性の声がした。
「お前の命は長くない」
声は胸の痛みの原因を説明しているようだった。更に、声は続いた。
「お前の魂は、死んだら悪魔になる。そして、命を刈る俺の下僕となる運命だ」
言葉の意味を理解する余裕などなかった。痛みで閉じていた目を何とか開くと、少年の前には、黒いマントを羽織った青年が立っていた。その姿を一瞬見て、また少年は痛みに目を閉じて、意識を失った。
自分の名前を呼ぶ声で少年は目を覚ました。最後に見た風景と違って、周りは明るかった。そして、帰る前まで一緒に遊んでいた、幼馴染みの少女が、少年の顔をじっと見つめていた。
「大丈夫!?」
少女は少年が目を覚ましたのを見たとたん、少年に顔を近づけて言った。大丈夫なのかはわからなくて、少年は呆然とした顔のままでいた。
「あっ……、ねえねえ、起きたよ!」
少女は少し間をおいてから、慌てて立ち上がって、部屋の外にいる人を呼んだ。
もしかして、寝ている間ずっと、少女は自分のことを見ていたのだろうか……。そう思っていると、呼ばれた人が部屋に入ってきた。親と、それに、多分、お医者さんだ。
「ずっと見ててくれてありがとうね」
そう言われた少女は、親の迎えが来ていたらしかった。
「また来るから!」
名残惜しそうに少女は部屋をあとにした。
少女が居なくなった部屋で、少年は重い病気にかかったことを告げられた。意識を失う前に「命は長くない」と言われたことを思い出しながら聞いていて、少年は素直に話を聞いていた。もちろん、あの言葉も、あのときの痛みも嘘だったらよかったのに、とは思ったが、何となく胸に残る重みがあって、少年はその話を素直に受け止めた。
「それにしてもあの子、ずっと見てくれてたんだから」
親は少女の話をした。優しい、いい子だと。それは本当に思う。いつも一緒に遊んでいたし、世話焼きなタイプなのは知っていたけれど、更にその印象は強くなった。
寝る時間になると、少年は病室に一人取り残されることになった。これからは、お見舞いに親や少女が来てくれるだろうが、寝るときは一人になる。暗くなると、意識を失ったときの胸の痛みを思い出しそうで怖かった。明かりを消した部屋で、月の光が入り込んでくる窓の方を、しばらく少年は見つめていた。
「気分はどうだ」
突然、声がした。少年は飛び起きた。見回すと、見ていた窓の方とは反対側に、声の主がいた。それは、あの朦朧とした意識の中で見た、黒いマントの青年だった。もしかして夢だったのではないかと思っていたぐらいだったが、思い返せば、あれは意識を失う前に見たものだったかもしれない。
「今の飛び起き方を見る限り、思ったより元気そうだが」
何も言わない少年に、青年は言った。それでも少年はなお、何も答えられなかった。
「そうだよなあ、怖いよな。こんな真夜中に、部屋で一人なら」
青年はさらに言葉を続けて、それから、何かを思いついたように、少年の目を見つめた。
「もし眠れないなら、眠れるまでは、俺が話し相手になってやる。な?」
「……お兄さん、が?」
少年はやっと声を出した。なんとなく、少年は青年が、別に怖い人ではないということを感じていた。
「お兄さん? ……ああ、でも、お前から見たらそう見えるのか。いいや、なんでも」
青年はお兄さんと呼ばれて、ちょっと照れくさくなったようだった。
少年と青年は、それから話しはじめた。
「お兄さん、あのとき僕に、命は長くないって言ったよね」
「言った。とりあえず、ある程度若いうちに、死ぬ」
「なんでそんなことを言いに来たの?」
「俺は人の魂を見極められる。だからお前の寿命も分かる。それに、お前が死んだら悪魔になる魂の持ち主なのも分かる。俺は悪魔を探していたんだ。だから言いに来たんだ」
「……僕が、悪魔になって、下僕になるとか、言ってた話?」
「ちゃんと覚えてるな。そうだよ、お前が死んで悪魔になったら、俺はお前を下僕にするんだ。だから死ぬまで、お前を見ている」
「うーん、よく分からないなあ」
「分かるとは思ってない。でもそうなるんだ。そもそも、俺は普通の人間には見えない。俺は人間ではないから。でもお前に見えるのは、お前が悪魔になる魂の持ち主だからだ。お前は俺を見る能力がある」
「そうなの……」
「って言っても分からないか、昼間に俺がここに立っていたとして、多分誰にも気づかれないのを見たら分か……」
ある程度話をしたところで、少年は眠気に襲われていた。
「……寝そうだな」
「……」
青年は少し笑って、少年を布団に潜り込ませた。
「おやすみ」
それから何日か、少年の病室での生活が続いた。昼になると必ず少女がやってきた。
「これね、お母さんがもっていけって」
そう言って持ってくる食べ物は、とても一人用ではない量だった。でも、少女が自分を心配してくれているのは分かっているから「こんなにいらない」とは言えずに、それよりも少女と話すことを楽しみにしていた。
そして夜は、必ずあの青年が現れた。夜の暗さに紛れた黒いマントなんて、どう考えても怖いし、お前は悪魔になるという話を繰り返ししてくるのに、少年はいつのまにか、それが当たり前になってしまっていた。
青年は少年が眠くなるまでの間、なぜ悪魔を下僕にするのかという話を少年に説明した。まず、青年はおそらく「死神」と呼ばれる存在に分類され、人が死ぬときを迎えたら、適切に命を刈ることが使命である。人の死にはなにかと負の感情がつきまとうもので、負の感情のコントロールに長けた悪魔を下僕として従えているのが普通らしい。もちろん使命を果たすことが存在条件ではあるが、悪魔からある程度の力をもらうことも必要である。死神は本能として負のエネルギーを好むため、負のエネルギーを集める悪魔に力を分けてもらうことで、自分の存在や精神を正しく保つことができる。だが、青年は最近下僕の悪魔を失ってしまった。代わりを探していて、少年にたどりついた。
「掟として、寿命でもないときに人の命を刈ってはいけない。だからお前の命が尽きるのを待っている」
「命が尽きるときに出てきて、いきなり刈るわけじゃないんだね」
「普通はそうなんだが、お前はどうしても下僕にしたいからな。他に奪われないように」
「そういうことなんだ……」
なるほど、とうなずいている少年に、青年は若干困った顔をした。
「正直、お前が思ったより俺の話をちゃんと信じるし、怖がりもしないから、俺はびっくりしてるんだが」
「だって、お兄さん、優しいから」
少年の言葉に、青年は少し怒ったような顔をした。
「負の感情を好む死神だと言っただろう。少しは怖がれ」
そう言って、青年は体を起こしたままの少年に、布団を無理やり被せた。いつもならとっくに眠気が来ている頃である。少年はおとなしく布団に潜り込んだ。
「……しかし、何だこの果物の量は」
青年は、窓際に置かれた果物を手に取りながら言った。
「食べきれないんだよね」
少年は布団の中から言った。
「だろうな。……俺も人間の食べる物には昔から興味があったんだが……」
「別に食べていいんだよ」
「いいのか」
青年はそっと果物を手に取って、それから口に運んでみた。
「……甘いな……」
少年はその姿を見ながら、ますます青年が怖い人ではないと感じていた。
少年の退院の日がやってきた。病気が治った訳ではないが、激しい運動をしない限りは普段通りの生活ができるという判断を受けたからだ。それを聞いて喜んだのは、少年自身より、むしろ少女の方だった。
「また一緒に遊べるね!」
「前みたいに走り回れないけど……」
「走り回るだけが遊びじゃないでしょ? 本当によかった!」
さっそく明日遊びに行く約束をとりつけられて、疲れてまた病院に逆戻りなのではないかと思ってしまったが、胸にかすかに残る重みのようなものも、思い出さなければ分からないほどには、小さくなっていた。
一方で、毎晩のように枕元にやってきた青年の反応はとても薄かった。
「よかったな、とでも言えばいいのか?」
若干不満そうな少年に青年は言ってから、よかったな、と、心も込めずに言った。
「絶対よかったとか思ってないよね」
「俺はお前が死ぬのを待ってるんだ。よくはないだろ」
「そうだね……でも、残念そうでもないし」
「とにかくまだ、お前は今をちゃんと生きる時期なんだ。……俺なんかと話している場合じゃないんだよ。お前が俺を忘れない程度には、これからも様子を見にくるけどな」
そう言って青年は少年に背を向けた。まだ時期は来ていないようで、青年は少し少年を遠ざけたようだった。
日が経つにつれ、友達だった少女がちょっと大人びて見えるようになった。動き回れなくなってからは、一緒に花を摘んで遊んだり、絵を描いたりするような、そんなおとなしい遊び方を繰り返していたが、それでも毎日のように少女は少年と遊ぶ約束をしていた。
ある日、たまには違うことをしようと言った少女は、自分の家に少年を呼んだ。昼ごはんは食べてこないで、と言われたので、まさかとは思ったのだが、少女は料理を作って少年を待っていた。年頃の女の子は確かに、お菓子や料理を覚えていくものなのかもしれない。
「おいしい?」
そう聞いてくる少女はわくわくした顔をしている。
「うん、おいしい」
いつの間にこんなに成長していたのだろう、と思いながら、少年は答えた。
「よかった!」
嬉しそうな少女に、少年も思わず笑った。そして、ここまでしてくれる少女に、友情より上の感情を抱いていた気がした。今のままでも、いつも一緒だけれど、こういうのは、もっと違う。確かそれは、「好き」というものらしい。
……でも、自分は早いうちに死ぬと言われていることを思い出して、少年は、告白なんてできるわけない、と思っていた。
少女の方も少年と気持ちは同じだった。料理を頑張ったのも、その気持ちからだ。初めは幼馴染みとして一緒に遊んでいるのが普通だったが、少年が病に倒れた日から、「お世話は私がするんだ」という使命感にあふれていた。だからお見舞いにも毎日行って、少年に必要とされたかった。他の誰よりも、自分が少年のことを分かっている自信があった。それに、他に会った誰よりも、少年とは気が合って、自分の相手に少年以外は考えられなかった。自分のしたことに、いつもありがとうと言ってくれて、褒めてくれる。どこかで聞いた話のように、もし好きと言ったら、好きと返してほしい。そんな関係になってみたかった。
お互いに好きだと思いながらも、それぞれがはっきりと自覚するまでは時間がかかって、相変わらずいつものように少年と少女は遊ぶ約束をする日々を繰り返していた。
ある日、少年は約束の時間より早めに準備を終えていた。今日は久々に外で遊ぶことにしたのだ。木陰で休みながら、少年が時間をつぶしていると、久々に黒いマントの青年が現れた。
「今日は元気なのか?」
「あっ、お兄さん」
忘れない程度には様子を見に来るなどと言っていたが、それだろうか。
「うん、それなりに元気だよ。お兄さんは?」
「俺か? いつも通りだよ」
「お兄さんのいつも通りはよく分からないな……」
最近会ったわけでもないし、昔は病室で会っていただけだし、と思っていると、急にちょっと息が苦しくなった気がして、少年は咳き込んだ。青年は少し慌てた顔をして、少年の背中をさすった。
「ご、ごめんね」
咳がおさまると、青年は表情を戻して、背中から手を離した。
「いいんだ。お前の命が尽きるときまで、ちゃんと見てやるから」
「……そうやって、すぐ僕が死ぬときの話をするんだね」
「仕方ないだろ、俺はあくまでも、お前が死ぬのを待ってるだけなんだから」
相変わらずだと少年は思った。きっと、昔に話したことを思い出させにきたのだろう。大体覚えているから、少年も青年に覚えていることを確認した。
「それで、僕はお兄さんの下僕になるんだっけ?」
「よく分かってるな」
「そうやって言ってたのはお兄さんでしょ?」
「そうだけど」
あまりに当たり前のように言った少年に、青年は逆に戸惑ってしまった。たしかに、あの不安な夜に毎晩話して聞かせたのだ。それにしても、素直だ。
「思うんだよな、ほんとにお前みたいなやつが悪魔になんかなるのかってさ」
「よく分からないよ」
「……本人には分かるわけないだろうな」
そう言いながら、青年は周りに視線を向けて、それから、少年の頭を撫でるように押さえた。そして、離れた。
「行っちゃうの?」
「ほら、友達が来たんじゃないのか」
確かに青年が言った通り、遠くから少女が歩いてくるのが見えた。
「今日は久々に様子を見に来ただけだ。俺の相手をしている場合じゃない」
そう言うと、青年はマントを翻して、その場から消え去った。
「おはよう!」
「あっ、おはよう」
青年がいた方を見たままでいた少年に、少女が言って、慌てて少年も挨拶をした。……そういえば他の人には見えないんだったっけ、と、少年は思っていた。
言われた通り、青年ではなく、今は少女と一緒にいる時間だ。そう思って少女を見ると、すこし少女がもじもじとしていた。
「こうやって外で待ち合わせするのって、まるで」
「ん?」
「あ、何でもないよ! 行こう!」
「あっ、待って!」
何だったんだろう、と思いながらも、少年は少女を追いかけた。
更に日を重ね、また外で待ち合わせをした。丘の上に少年と少女はやってきて、そこでしばらく、あたたかい日の光を浴びていた。それだけでも少年は幸せな気分になっていたが、少女はなぜか落ち着きがなかった。どうしたんだろう、と少年が少女の方を見ると、少女は意を決したような顔をして少年を見ていた。
あの、どうしたの、と言うより前に、少女は口を開いた。
「好き!」
少年はびっくりして思わず口を開けてしまった。
「もう友達じゃ満足できないの!」
更に少女は言ったが、少年は口をぱくぱくとさせた。
……先を、越された。
別に今までのことを考えれば不思議でもない。行動派な少女に、ついていくのが少年だったからだ。それでも、告白は男から、なんて話もある。先を越されてしまった。
「ぼ、僕だって、君のこと……好きだったのに」
少年が、やっと言った言葉に、少女は目を丸くした。
「ええーっ。そーなの?」
「そ、「そうなの」ってさ、僕の気持ちも予想せずに「好き」なんて言ったの!?」
慌てる少年に、少女は今度、表情を明るく変えた。
「ん? 少しは自信あったけど、でも、正直嫌いって言われようが、無理やりうなずかせようって思ってたよ!」
思わず呆れそうになる強引さだったが、そんなことはどうでもよかった。ずっと、自分に言えなかったことを、少女が言ってくれたのだ。それなら、喜んで受け取るほかはない。
少し考えてから、少年は言った。
「……デートの、お誘いぐらいは、僕からさせてよね」
今度、あの喫茶店に行こうよ。
黒いマントの青年はそれを見ていた。少女と約束をした少年が、帰路についたところで、青年はそっと少年の前に現れた。
「っ、お、お兄さん!」
「お前もずいぶんと成長したんだな。ついに彼女ができるときが来たとは」
「はっ、恥ずかしいよ。もしかして見てたの?」
「告白の先を越されたところから、しっかりと」
「……ひどいよ」
青年はからかうような目で少年を見た。が、すぐに真面目な表情になった。
「それにしても、最近は体調が良さそうだな」
「うん。……お兄さん、僕は早いうちに死ぬって言ったよね?」
「言った。早いうちに死ぬ」
「具体的にいつなのか、全然教えてくれないよね。もしかして嘘なの?」
そういえば、いつもそうなのだ。具体的にいつ死ぬのかを青年が言ったことはない。それを伝えないのも掟なのかもしれない。普通は見えない存在が話してかけてくる方がおかしいのかもしれないが。
「嘘な訳あるか。俺には見えてるんだから」
青年は怒ったように言ったが、少年が若干落ち込んだ顔をしたのを見て、少し考えた。
「そうだな、でも、ある程度お前とあの子が仲良くできる時間がある保証なら、してやれるか」
「……ある程度って、うまくごまかせたつもりなの?」
少年は疑惑の目を向けたが、青年は動じなかった。
「お前も、自分で分かってるだろ。そこまで長くは生きられないことを。俺の話だけを鵜呑みにして、早死にするなんて思ってはいないよな」
「……うん。正直、昔から聞きすぎてるせいで、お兄さんの話が一番の確証みたいになってるかもしれないけど……」
「それはどうかと思うけど」
しばらく少年も青年も黙っていた。しばらくして、少年は口を開いた。
「信じるよ、ある程度なら、あの子と仲良くしていられるんだよね? それなら僕は、最後まで……」
「……そうか。お幸せに」
青年はそう言って、少年に、家に帰るよう促した。
無事に少年が家についたのを見届けてから、青年は呟いた。
「そのときまでの、辛抱だからな。それさえ終われば、お前を悪魔にする約束なんだ」
ゆっくり待っているのにも限界がある。正直、少女と少年が思いを通わせようが、どうでもよかった。青年は、早くその最後が来ないかと思っていた。
きっとその頃が一番ましだったのだろう。少年の体調が再び悪くなった。デートの約束をすることができなくなり、少年はまた病室での生活に戻り、少女は病室に通うようになった。
「初めてここに運ばれる前にね、……夢だと思ったんだけど」
少年は、そういう前置きをして、青年が自分に話したことを少女に説明した。早いうちに死んでしまうことと、死ぬと悪魔になる魂だということと、そうなったら青年の下僕になると言われたことである。
少女は、夢だと思ったという前置きのせいで、そこまで話を真面目には捉えなかった。
「夜にそんなこと言われたら怖いよね」
「いや、でもほんとなんだよ、そのお兄さん、毎晩来て話をして」
少年がそう言っても、少女は信じていないような顔をしていて、少年は肩をすくめた。少女は、少年が死を恐れているのだと思って、なんとか元気づけられないかということを考えていた。
「そんな不気味なやつの下僕なんかになるより、私の彼氏でいてほしいよ」
突然の言葉に、少年は思わず顔が火照った。
「……ほんとそうなんだけど」
「あっ、ちょっとくさいよね、こんな言い方」
「あはは、甘いっていうか」
「なんだろ、それなら、「そんなやつの下僕なんかより、私の下僕になれ」?」
「それはどうなの!」
二人はしばらく笑っていた。少年は、信じられなくても仕方ない話だなと思っていた。どうせ死んでしまった後のことは分からないし、下僕になったからといって、彼女がそれを知ることはないと思っていた。
少年の死の時期は確実に近づいていた。やっとの思いで外出の許可を得た日を、少年は彼女とのデートにあてた。もしかして最後かもしれないと、少年は覚悟を決めていた。
その頃、青年も焦りを感じていた。今まで穏やかに少年の死を待っていたが、遂に以前の下僕からの力が尽きそうになっていた。
「もう待てない……」
何だか、力が安定しなくなったせいか、まともにものを考えることができない。命を刈っていい時間は近づいているが、あと数日は待たなければいけない。だが、その数日が待てない。
青年は物理的に少年を殺すことによって、命を刈る行為に及ぶことにした。そうする瞬間には、人間にも姿が見えてしまうが、時間がない。本当なら、少年が最後のデートを終えて一人になったところを狙って、死ぬのを待つつもりだったのに。
青年は、デートを終える前の少年と少女の前に立ちはだかった。
「ねえ、なにあの人」
少女は言った。
「えっ、あの人が見えるの?」
少年はびっくりした顔で言った。いつもあの黒いマントの人は、自分にしか見えないと聞いていた。何かあったのだろうかと、少年は思った。
「あの、お兄さん?」
少年が青年に話しかける。青年は険しい顔で少年を睨み付けていた。
「もう時間だ。お前はここで死ぬ」
そう言うと、青年はナイフを取り出した。
「……そうなんだ」
少年は諦めたような顔で笑った。少女はびっくりして、少年の手を握って走り出した。
「や、やめて! 僕走れない……」
「知らない! 殺されそうになって、何であんなに落ち着いてんのよ!」
少女は強引に言って、逃げ込んだ建物の隅に少年と一緒に転がり込んだ。
「あのね、聞いてくれる? 前、話したよね、黒いマントのお兄さんが、僕の命が長くないって教えてくれた話……」
少年はかすれた声で言った。
「えっ……」
「お兄さんは今まで待ってくれてたんだよ……。僕は悪魔になって、お兄さんは、僕を下僕にするんだ……それが、今なんだって……」
少女は信じられないという顔で少年を見ていたが、そこに青年が追い付いた。
「そいつが言った通りだ。そいつは悪魔になるんだ。そして、俺の下僕になる。昔からそういう約束をしていたんだ。分かったら、さっさとそこをどけ」
青年は、少年ですら聞いたことのない恐ろしい声で、少女に言った。
「分からないよ! なに、悪魔とか、下僕とか。なんであんたの下僕にされなきゃいけないの」
少女は屈することなく言い返した。
「いいんだよ、僕は最初からそういう定めだったって……」
少年がそう言うのも聞かず、少女は青年の前に立った。
「お前も刺されたいのか? 早くどけ」
「嫌だ! あんたなんかの下僕にされるぐらいなら……!」
少女は迫り来る青年の手からナイフを奪い取り、それを、少年に向かって突き立てた。
「私の、下僕にする」
「……!」
少年は息絶えて、青年は呆然とした。
「こうすれば、あんたの下僕にはならないの?」
少女から、突然力が溢れ出た。
「どういう……ことだ……」
青年は全身が震える感覚に襲われた。今まではなかったはずなのに、今、確かに目の前の少女は、悪魔の主となる力を手に入れていた。
「ああ! いいよ! こっちもこうなった以上、別を探すしかなくなったんだから……」
青年は叫ぶように吐き捨てて、よろめく足でそこを去っていった。
少女は突然我に返って、少年の方に振り返った。息絶えた少年がいたはずのそこでは、どす黒いなにかが、地面から少年の体を覆い尽くしていた。
少女は呟くように少年の名を呼んだ。しばらくすると、少年の回りの何かは、翼のようになって少年の背中に吸い込まれ、そして、少年の姿は、今までからは想像のつかないものに変わっていた。
服も、髪も、目も、違う。辛うじて、顔つきは元の面影を残している気がする。
そして、姿を変えた少年は、少女を見つめて言った。
「……あなたが僕の、主ですね?」
少女は頷けなかった。だが、それは確かに、少年が悪魔になった姿だった。そして、少年の記憶を、全て失っていた。
悪魔はなにも分からないという主に、丁寧に説明を始めた。
「あなたと違って、僕は負の感情がなければ力を失います。あなたは悪魔の主の割に、あまり負のエネルギーがありません。……ただ、可能性だけなら大きそうですね」
今度、あの喫茶店に行こうよ。
少女は少年の思い出を悪魔に重ねていた。自分から見たその顔の角度が同じで、表情こそ違うものの、やはり同じ顔をしている。
「あなたが今さっき失った……僕は何か知りませんが。それが、僕の主となる源なんですね」
それあんたなんだよ、と、少女は思ったが、口には出さずに悪魔の話を聞いていた。
「とりあえず、分からないことがあれば言ってください。僕も何を説明すればいいかわかりません」
「その口調をやめてほしい」
「主に対しての敬語は普通ですので」
「ほんとになにも覚えてない?」
「今生まれたばかりなんですが……」
「今生まれた割にすごく詳しいのはつっこんじゃだめ?」
「僕が悪魔である以上、潜在的に分かっていることを話しただけです」
少女の立て続けの質問に、悪魔はさらりと答えてみせた。
少女は間をおいた。
「……じゃあ、だめもとだ。君は」
少女は悪魔の正面に立った。
「君は私のこと好き?」
今まで間もおかずに答えていた悪魔は戸惑った顔をした。
その顔を少女は見て、
「……好き」
と答える少年の顔の幻覚を見た。思わず顔を赤くしてしまった。さっきから何度も幻覚を見る。顔が似すぎなんだよ、と、少女は今度いらっとした。
何も言わないうちからころころ表情を変えられた悪魔は困った顔をして、間をおいて、言った。
「……好き」
少女は嬉しさでまた顔を染め上げた、が、
「……です」
と、悪魔は続けた。
「あ……っ」
やっぱり、覚えてないんだ、と、少女は思った。
「多分そう言えばあなたは喜ぶと思ったので。悪魔なのであまりこういうこと言いたくなかったんですけど、主に嫌われたくないですから」
さらに弁解まで付け加えられて、ますます少女は落ち込んだ。
「……でも間違いではないので。……だって」
悪魔はさらに付け加えると、笑った。
「僕はあなたに従う、忠実な悪魔ですから、……ですから。好きかどうか気にする必要はありません」
悪魔は多分、忠誠心を強調したかったのだろうが、少女は黙って背を向けた。
つまりは別に好きじゃないし、好きだとしてもこの関係だからだし、望みなんてないし、大体昔の少年とは違うわけだし……。
それよりも、さっきの表情は、確実に昔の少年とは違う、悪魔の笑みだった。
少女と悪魔が主従関係になってしばらく経った。二人は元の人間からは外れた存在となり、 少年の死んだ人気のない建物で、そっと暮らすようになっていた。悪魔はたまに出掛けては帰ってきて、を繰り返し、少女はずっと物思いに更けているか、少年とデートした場所を一人で歩いているかのどちらかだった。
「そういえば、聞いてないことっていっぱいある気がするけど、「悪魔」って何をするの?」
少女は悪魔に聞いた。
「あまり主の怖がる顔は見たくないと思うのですが」
「そんなに怖いことするの……?」
怯えた顔の少女に、悪魔は少し微笑んだ。
「怖いと思うかは実際わかりません。主は平気だと思うかもしれません」
「実演する気? あの、別に言葉で言ってくれていいんだけど……」
戸惑う少女に悪魔は背を向けた。
「すみません。僕に少し力が足りないので、ついでですから実演させてください。主もこれから度々見なければならないかも知れませんから」
悪魔の背に、なんとなく翼のようなものが見えた気がした。
「……やっぱり」
悪魔は少女に聞こえない声で言った。そして、悪魔の姿は消えた。
驚いている少女の前に、今度は、死んだはずの少年が姿を現した。
少女は少年の名前を久々に呟いた。少年は少女をまっすぐ見つめてくる。
「……僕を覚えてたんだね」
少年はそう言うと目を伏せて、言葉を返さないでいる少女に、更に続けた。
「でも覚えてるのは当然か……」
少年は伏せていた目をまた少女に向けると、睨むようにして笑った。
「まさか、殺したこと忘れたはずないもんね?」
少年はそっと少女に手を伸ばしてきた。
「僕は好きだったよ。……でも、殺した奴を好きで居続けるほど僕も穏やかじゃない。
……できるなら、同じ世界に連れていってあげたいんだけど」
腕に少年の手の感覚が伝わってきて、少年の瞳は暗く、飲み込まれそうだ。
やっぱり、恨んでるんだ。少女は少年の表情を見ながら思った。
返す言葉もないまま少年を見続けていると、少年の姿がだんだんと途切れてきた。そして、糸が切れるような音がして、代わりに、目を閉じた悪魔がそこに立っていた。
「……主」
冷や汗が止まらない少女に悪魔は言った。
「やっぱり、ターゲットに選んでしまうのは主でしたね。主が今恐れていたものを見せました」
今のは、悪魔が見せたのか。少女はまだ嘘だとは思えないままでいた。
「僕は近くにいる誰かのうち、特に負の感情を引き出しやすそうな人に、今のような幻覚を見せて、そして現れた負の感情を自分の力にします。幻覚は嘘だらけです。見破られれば大した量になりませんが、この程度で十分僕は存在を保てます」
悪魔の説明を聞いて何とか我に返った少女は、今度は別のことが気になり始めた。
「わかったけど、それより……今の幻覚、今見せたのを、あんたはどう思ったの?」
「……それを聞いて……どうするのですか」
少し悪魔の声が震えた。
「……はっきり言った方がいい? その幻覚とあんたが似てると思わなかった?」
少女が強く言って、悪魔は少し泣きそうな顔をした。
「……似て……いや……」
「ねえ」
「……分かりません。ごめんなさい。 主に対する気持ちが僕は分からないんです」
悪魔は一粒涙をこぼして、少女もつられて涙ぐんだ。きっと、かすかに悪魔も分かっているのだろう。だが、それを無理に認めろとも言えない。少女はそれ以上何も言わなかった。
存在維持のために、悪魔はまた出掛けていた。主には極力、幻覚を見せる自分を見せたくなかった。別に主が嫌がっている訳ではないが、なんとなく、「主には負の感情を見せてはいけない」と思っていた。それに、悪魔らしい悪魔としての自分も。
いつものように人気のない建物で、主は帰りを待ってくれているだろう。そう思って、悪魔は帰ろうと、暗い夜道を歩いていた。
「久しぶりだな」
背後から、声がした。慌てて振り向くと、そこには黒いマントに身を包んだ青年が立っていた。
「どなたですか」
悪魔は警戒した声で言った。
「そうか、記憶は失ったか……」
「記憶? それより、あなたは何者ですか」
「ずいぶん警戒しているようだが、お前の敵ではないから安心しろ。お前が悪魔なのを知っていて話しかけているんだ」
普通、悪魔は悪魔の主となれる存在にしか姿が見えない。しかも、悪魔と分かっているなら、この青年は明らかに主と同じ種類の存在だ。
「僕に、何の用でしょうか」
悪魔は警戒を解かずに聞いた。
「……まず、丁寧な物言いをするんだな、悪魔の割に」
「悪いですか。話し方など関係ないでしょう」
「昔はもっと……ああ、いい。どうせ覚えていないんだ。俺は久々に会えた気分なんだが」
「……何なんですか?」
だんだんいらいらとしてきた悪魔に、青年は笑いかけた。
「お前の主に、お前は満足しているのか?」
「は……?」
「お前の主は悪魔のことなど何も理解していないだろう。悪魔の主としての負のエネルギーも少ないんじゃないのか?」
ばかにしたような表情の青年に、悪魔はさらにいらいらを募らせた。
「僕の主の何を知ってそんなことを言うのですか」
「何もかも知っているんだ」
確かに、この青年の言葉は、自分達のすべてを見てきたかのようだ。だが、それがなんだというのか。
「……何が言いたいのかよく分かりませんが、主をばかにするなら、こちらも黙ってはいられませんよ」
悪魔は青年の目を睨んで念じた。
「幻覚を見せる気か? そうだな、悪魔にできることなんてその程度だろうが」
青年も悪魔の目を見た。
「俺なら、もっとお前をうまく使いこなしてやるのに」
下僕を求めていた青年の執念はただならぬものだった。
青年にも下僕の悪魔がいた頃がある。悪魔の状態ぐらいは、すぐに把握できてしまう。
「お前の主は、お前が消したくなるほどに眩しく感じないか。なぜだと思う。お前の主がお前を好きだからだ。一度お前の主が失ったものも、結局は目の前にある。それならいつか、お前の主は負の感情を忘れてしまう。その先にはお前の消滅が待っている。でも、お前は悪魔だ。主を思う気持ちも、お前の消滅の助けになっているようなものだ。お前は本能として消滅を拒む。それなら」
悪魔の目が虚ろになる。
「お前が主を消すんだ」
悪魔は、その言葉を聞いたとたんに、全身から力が抜け、地面に倒れこんだ。
青年は倒れた悪魔を見下ろすと、声をあげて笑い始めた。
「あんなことで主の権利を奪われたと勘違いしたのは失態だったな。奪い返せばよかったんだよ」
青年は力の抜けた悪魔の首を掴んだ。
「ほら、わかったら、とっととあいつを消せ。最悪な幻覚を見せるんだ」
投げ飛ばされるように手を離された悪魔は、まっすぐに少女のもとに向かった。
「遅かったんじゃない?」
少女の出迎えはまるで、自分の彼女のようだった。
「力を得るのも、大変なんですから」
悪魔はいつもの素振りで少女に言った。
「ただ、今日は、こんなに苦労したのに、足りないんです」
「……そう、なの?」
単純に心配そうにしてくる少女は、確かに眩しく見えた。本当に、悪魔の主なんて、似合わない。
「前に言いましたね、一番近くにいる人に、幻覚を見せるって」
「うん、?」
「きっと、これが、主の見たい幻覚だと思って……」
悪魔は、少年に姿を変えた。
「……!」
思わず少女は少年の名前を呼んだ。
「ねえ、好きだよ」
少年は言った。
「……嘘だ、前は、殺したからもう、好きではいられないって」
「え? 僕、そんなこと言った?」
「言ったよ! っていうか、何なの、幻覚だよね、幻覚なら見破ったら終わりって」
「幻覚じゃないよ。僕は僕でしょ? 僕のことを信じてくれないの?」
「……わけ分かんないよ」
「僕は君に殺されて、それで今、君の目の前にいられるんだよね。僕、それを知らなかったんだ。ちゃんと言わなきゃね、ありがとうって」
「な、何で? 記憶は取り戻したの?」
「……記憶って何の話をしてるの。だから、僕は僕なの。それに、僕は君が好きだって言ったのに、何で君は僕に言ってくれないの」
「……そうだよね、いつも、私が先だったのに。私も好きだよ」
溺れた。幻覚なんて、見る人の思いで勝手に構成されていく。
「大きな幸せは、幸せすぎると、飽和して、反転するそうです。つまりこの幻覚に溺れてしまえば、そのまま、僕の力の糧ですよ」
悪魔は少女ごと幻覚を負のエネルギーに変えると、それを吸収した。
「……へえ」
声と共に足音が近づいてきて、悪魔は振り返った。声の主は、黒いマントの青年だ。
「負のエネルギーを得ることと、正のエネルギーを消すことが、悪魔の能力だとは昔から聞いていたが」
「あなたが言ったのでしょう、最悪な幻覚を見せろと」
「あれは幸せな幻覚だろう」
「最高と最悪は隣り合わせなんですよ」
「……恐ろしいな、そう考えると。ますます、お前があのときとは違えて思えるんだが」
青年は、少し懐かしそうな顔をしたが、相変わらず悪魔には何も理解できなかった。
「あのときって、何の話をしているんですか?」
「生前の話だよ。お前は純粋なやつだった。悪魔になんかなるのかって思ったんだよ。でも、飽和したものは反転する、の理論なら、説明できなくもないのか」
「……そうなんですね」
悪魔はよく分からないという顔をしていた。
「さあ、お前も主を失った今、やっと約束を果たすときが来たな。お前は俺の下僕になるんだ。お前ほどの力に溢れた悪魔がいれば、俺もしばらくは安心だ」
「……はい、主」
#元々は少女メインなお話で、リンさんとレンさんのお話として考えていました。