天使の話

 いつからだろう、いや、初めから、生まれつきだと思うのだが、俺の中ではいつも『黒』が影を潜めていた。それは本来、俺にはないはずのものだった。

「天使には後ろ向きな感情がない」

 誰がそれを定義したのかは知らないが、それは俺たちが信じる常識の中の、ほんのひとつである。

「白い翼を持っているのが、天使の特徴だ」

 これも、他に白い翼を持っている種族がいない上での説明ではないだろう。だが、俺たちの他にそんな種族がいることを知らない。だからこれも、俺たちの信じる常識の中のひとつだ。

 それに、生まれたときから、俺の周りにはその説明に合うひとばかりが生きていた。だから、俺も自分のことは天使だと思っていた。
 でも、周りの心の綺麗な天使に出会う度、俺は自分の中の『黒』の存在を自覚するようになった。

 俺も白くなりたい、うらやましい。

 そう思うこと自体がどうも、俺の『黒』を増強させるようだった。
 俺は、それは天使としての向上心だとばかり思っていた。少しでも陰る心を見れば行って照らしてあげる。それが俺を含む天使の本能であった、はずなのに、……いつも俺は周りと自分を見比べていた。

 俺も白くなりたい、真っ白な心が欲しい。

 いつか羨む思いは欲しがる思いへ変貌した。もし白い心を手に入れられたら、俺の心の中にある、この渦巻く黒も消えるのか。
 そう思った頃から、俺の翼は陰り始めた。
 俺が天使だとすれば、俺の翼は白いはずだが、心の中だけでなく、翼にも『黒』が染み出してきたのだ。
 それでも多少羽根の色が灰色に見える程度だった。少し暗いところに立てば、誰にも気づかれない。

 しかし、他の天使を見て羨ましくなる度に、確実に俺の翼は白さを失っていった。そして、極めつけはあの天使に出会ったときだった。

 彼女とは初めて会った気がしなかった。名前も、何も知らないのに、俺は一目見てそう思った。なぜなら、彼女の姿と俺の姿がよく似ていたからだ。
 しかし、彼女は俺とはまるで違った。どんな人にも分け隔てなく、その眩しい光を分け与えることができた。
 彼女を一目見たそのとき、俺は運命を感じたのだと思った。でも違った。
 俺の中の『黒』は、その圧倒的な『白』に呼応するように、急激に強まっていった。

 俺は自分に似た彼女の存在に、何の根拠もなく正に振れる可能性を期待して、運命を感じたと思ったのかもしれない。しかし、きっと俺は、自分を大きく変えるものすごい力を、運命と勘違いしただけだったのだろう。
 とにかく、俺は出会ってはいけない天使に出会ってしまった。沸き立つ欲望は抑えられない。灰色程度で済んでいた翼の変色は赤黒く濃くなり、普段感じもしなかった血流を全身に感じた。
 そして、いつのまにか俺の瞳の色まで変色していた。それは感じた血の色と同じだった。

 とにかく、白が欲しい。

 俺は手当たり次第に周りの天使にすがった。天使たちは皆、俺の姿を見て悪魔なのかと驚いた。
 違う。俺は悪魔じゃない。でも駄目なんだ、とにかく俺を照らしてくれ、と頼んだ。
 どの天使もそう頼むと、俺を哀れんで心を照らしてくれた。きっと今の俺には、もうそんな余裕など残されていないが、これが本来、天使のあるべき姿なのだ。こんな俺を、叱ったり侮蔑したりしない。悪魔かと疑っても、俺が困っているということを優先して、助けようとしてくれる。
 俺の翼が真っ白に戻ることはなかったが、それでも、俺の心を縛り上げる焦りは、照らされることで消えていった。
 ありがとう、楽になった気がする、と、俺は助けてくれた相手に伝えた。もう大丈夫なのかと、戻らない翼の色を見て皆心配したが、戻るまで付き合ってもらうのは申し訳ないから、と、俺は相手に背を向けた。それを何度も繰り返し、毎回俺は思った。

 皆、本当に真っ白だ。
 ……俺、も、そうなれたら……。

 そう思ってしまうからまた、俺の心は陰る。こんなに繰り返したら分かるはずなのに、俺はまたそう思ってしまう。

 何度目かの天使と別れて、また同じように思って、それから、俺は自分の翼に手をやった。
 ひとつ、羽根を抜く。その羽根はやはり、赤黒いままだ。俺はそれをしばらく見つめていた。あんなに照らしてもらって、足りないのか。……そう思っていると、少し視界がぼやけた。
 このまま、迷惑ばかりかけていいのか……俺は自分で自分に問いかけた。また、身体中が熱くなる。『黒』が強まる。今まで出会った天使を思い出しては、また、呑まれる。
 そして『黒』は囁いた。照らしてもらうんじゃないと。『白』を奪うのだと。

 具体的にはこうだ、俺が陥ったのと同じように、黒い感情に巻かれてもらう。黒い感情に堕ちてもらう。そうやって変化したときの力を得れば、俺は白を手に入れることができる。その現象は『堕天』と呼ばれる……。

 つまり、他の天使を堕天させれば、俺は白くなれる……。そうだ、俺は白くなりたい。白くなりたい。
 俺はまた、手当たり次第に天使に近付いた。黒い感情なんて微塵もない相手に、俺はこう声をかけた。
「綺麗な翼だね、うらやましいな」
 大抵相手は俺の翼の色を見て驚く。
「この色のせいで、嫌な思いをたくさんしてきたんだ」
 そう言うと優しい相手は皆同情してくれる。同情するそのときは、いくら自身にその感情がなくても、俺の黒い感情を理解してくれる。それを、引き金にできる。
「お願いがあるんだ」
 あとは俺が、囁くだけだ。堕天しよう、と。

 堕天の始まる瞬間、相手の表情が歪むのを見ると、たまらなく俺の心は喜びを感じた。思わず俺は笑い声をあげていた。何故なのかはじめはわからなかったが、相手の翼が黒くなるのを見て分かった。俺と同じ思いをすることになるのだ。心には黒い感情が溢れ、それが翼も染め上げる。そして失われる白さをすべて、俺が手に入れる。俺の翼はそれを得て、一気に白さを取り戻した。
 堕天した相手は自分の姿に絶望したり、なぜこんな姿にしたのかと俺に掴みかかったりしてきた。しかし、そんなことをしても、二度と戻れるはずがない。あとのことは、俺は知らない。何人かをそうやって堕天させ、俺の翼は完全に白くなった。

 俺は白くなった翼に安心する一方で、それが余計に自分の『黒』を完全化させていることには気づいていなかった。手に入れた白は気休めで、徐々にまた翼は黒ずんでいく。その度に俺は白を求め、他人を堕天させる。
 心の中で『黒』は何度も囁く。『白』を奪え。それが俺の喜びだろうと。確かににそうだ。真っ黒に染まった姿を見ると嬉しくて仕方がない。俺はなりたかった白になれる。
 欲望は止まらない。もはや俺は天使などではなくなっていた。
 
 終わらない『黒』の囁きに、辛うじてまだ従順でない自分は、これ以上他人に迷惑をかけたくないと願っていた。

 助けてくれ、この『黒』から。

 この『黒』を打ち消せるほどの力を持つのは……彼女しかいない。
 俺はそう思って彼女に近づこうとした。しかし、彼女を見た途端に、また俺の『黒』は呼応した。
 
 彼女が堕天するのを見たい。彼女から『白』を奪うんだ。

 心の中で囁き声が聞こえる。囁きは幾重にも重なる。うるさいほどに、重なる。奪いたい、黒くなる様を見たい。溢れてくる。

 ……俺は今までそれが囁きだと思っていた。でも、違う。これは俺の望みだ。今すぐにでも彼女の白を奪いにいきたい。
 初めからそうだった。『黒』と俺に区別はない。俺自身が『黒』だった。

「綺麗な翼だね。うらやましいな」
 彼女に声をかけると、彼女は驚いた顔をした。俺の姿に驚いたのだろう。
「あなたは……」
「この翼のせいで……嫌な思いをたくさんした。辛くて仕方ないんだ。君なら、……この気持ちを何とかしてくれる?」
「……私に、できることなら。精一杯、あなたの心を照らすことなら」
 彼女が俺に向ける表情はあまりにも優しくて、眩しかった。こんな俺の姿を見ても、そう言ってくれるなんて、本当に天使そのものだ。
 ……でもそれが、俺の欲望を余計に強める。
 すべて、この『白』のせいだ。
「ありがとう」
 一言、彼女へ答える。
「でも、俺が欲しいのは、それじゃない」
「……え」
「お前が! お前がそんなにも白いから俺はこんなに黒くなったんだ! 今すぐその白さをよこせ! なあ!」
 俺は彼女の腕を掴んだ。優しかった彼女の表情は恐怖に塗り替えられる。
 手を通して、溢れ出る黒い感情を彼女に流し込む。代わりに彼女の白い感情は俺に流れ込む。徐々に彼女の翼が黒く染まり、俺を見つめている目が赤く染まる。
「なあ、分かってくれたか、俺の気持ちを」
 彼女は俺をしばらく見つめたあと、目を閉じた。どうも、気を失ったようだ。
 俺は自分の姿を確かめた。俺が今まで見たことのない、真っ白な翼が背にある。
 だが、今目の前にいる堕天した彼女を見ると、やはり嬉しくて仕方がない。また俺は笑い声を上げていた。やっと俺の気持ちを分からせることができたのだ。それがたまらなく嬉しい。
 そんな俺は、初めから天使などではない。