#110
#イレイザーさん視点
ついに仕事の日がやって来た。現地集合ということになっているから、直接現場に向かった。
到着時刻は、遅すぎず、早すぎず、大体5分前になるように、調整して歩く。これでもし自分の方が遅かったとしたら……と思うところもあるが、それは、その時だろう。
そう思いながら歩いていると、集合場所が見えてきた。控え室となる部屋の前だ。……そして、反対方向から、ほとんど同じタイミングで、フェイカーさんが歩いてきているのも見えた。……このまま、歩くと、ちょうど集合場所に、同時に着く。
そして、予測通り、集合場所で僕達は向かい合った。
向かい合って、多少の沈黙があったが、こんなにしっかり向かい合ってしまうと、何か言葉を交わさなければいけない気もした。しかし、第一声は出ず、先に僕は頭を下げた。すると、フェイカーさんも同じように頭を下げてきた。
また、多少の沈黙があり、目が合う。表情に疑いや恐れを出してしまっては、相手が不快になるだろう。
「はじめまして」
そう思っていると、先に声を出された。
「はじめまして」
僕は答えた。
「……ここで間違いないわよね」
「……間違いないと思う」
言葉を、交わせた。僕達は、軽く頷き合って、その部屋に入った。
何も間違いなどなく、入った部屋で撮影の説明を受けることとなった。今回は楽器を使うところが多いと聞いていたが、そうでないシーンの撮影も多いらしく、先にそのシーンの撮影をすることになった。
楽器を使わないシーンであれば、楽器ができないことで悩むことはないな、と、少し安心した。確かに心配事は後回しだが、いきなり心を折られることはなさそうだ。
楽器を使わないシーンは、一人ずつでの撮影がメインだ。片方が撮影中は、片方が待機になる。交代の度に、お互いを呼ぶ段取りになった。
「交代だって」
「分かった。お疲れ様」
「うん」
……およそ、それだけのやり取りを、何度か繰り返した。……それだけだが、それでも、会話はできている。そして、だんだんそれにも慣れてきて、何となくだが、フェイカーさんの表情が優しく見えてきた。きっと、それは僕も同じなのだろう。何となくあった緊張感が、徐々に薄れてきている。それを自覚している。
楽器を使わないシーンの撮影が終わった。休憩時間が来たが、ちょうど昼食の時間で、僕達は弁当をもらえることになった。控え室は一つだから、僕達は一緒に昼食をとることになった。
椅子が二つと、長机が一つで、そこに弁当が適度な距離で置かれていたから、僕達は弁当の置かれている場所に合わせて椅子を置き、座った。
……ご飯の時に話すのは行儀が悪いかもしれない。「いただきます」の挨拶だけ口にして、しばらく食事に集中していた。しかし、ふと顔を上げると、フェイカーさんと目が合った。フェイカーさんは目が合ったのにすぐ気づいて、視線を変えた。
気のせいだったかもしれない。弁当を食べきるまで、できるだけ横は見ないようにした。
「ごちそうさまでした」
食べきって言うと、ちょうどフェイカーさんも食べ終わったタイミングだったらしかった。
「ごちそうさまでした」
フェイカーさんも、ほとんど僕の後に間を開けずに言った。
「この後はギターを使うのよね」
そして、話しかけられた。交代するときの流れがそのまま来ているらしい。
「そうだな、……」
僕は言葉に詰まった。ギター、は、結局、まともな練習をすることができなかったんだ。
「……少し気にしていたのだけれど」
「な、何だろうか」
フェイカーさんは僕に少し目線を合わせた。
「あなたは楽器を普段弾いているわけではない……間違ってない?」
「……間違いない」
元の曲の担当もお互い知っているし、誤解するところではない。
「今も別に弾ける訳ではないのよね」
「……恥ずかしいが、弾けない」
正直に、言うところだ。事実を言っているだけだ。
「そうよね」
「……ああ。だから、ちゃんとこの後の撮影ができるか、心配している」
見栄なんて張れないし、そう答えるしかない。
「……実際、撮影だから、振りの方が大事になるとは思っているけど。……心配にはなっていたってことね」
「少し、練習をしようとしたが、緊張してうまくいかなかったんだ」
「練習で緊張したの?」
「う……や、やはり、楽器は触りなれなくて、緊張して」
さすがに、弦を消したとか、ギターを消したとまでは言えないが……。
「……フェアリーに少し聞いていたけど、あなたはほんとに真面目な人なのね。私は楽器には抵抗ないから、そんなに緊張するのはあまり理解できないけど」
フェイカーさんはそう言って、立ち上がった。
「仕方ないわ」
弁当の容器を片付け始めたから、急いで僕も倣った。
「本番で緊張する前に、ギターを触っておきましょ」
「……教えてくれるということか?」
「教えるってほどじゃないけど、心の準備をした方が緊張しないんじゃない? 練習ですら緊張してたなんて聞いたら……」
「……とても、助かる。ぜひ、お願いしたい」
「いいわよ、そんなにかしこまらなくて」
フェイカーさんは何となく、僕に向かって微笑んだように見えた。僕も、そう見えるかは分からないが、少しだけ笑って、頷いた。
ギターについたベルトを肩にかけて、持つ。
「左手で弦を押さえる。弾くところに近い方を押さえた方が、高い音。遠くを押さえれば、低い音。どの弦を弾くかで音は違うけど。一旦ここを押さえて、その押さえたところを、弾いて……そうそう」
動作一つ一つを見てもらってやってみると、案外安心して弾けるものだ……。僕は、何もわからずに触ろうとしていた自分に対して、緊張していたのだろう。
「原理はそういうことだけど、撮影は厳密に弾くことはないでしょ。どちらかというと、動きになるから、左手をこうやって動かしてみたり、右手は弦の上からと下からを繰り返して弾いたり」
基礎的な動きも、教えてもらう。
「……慣れた?」
「ああ、ここまで教えてもらえれば……本当にありがとう」
「うん、よかったわ。これで次の撮影も問題なさそうね」
僕自身もだが、フェイカーさんも安心した表情になっていた。
そのまま撮影に移った。ギターを弾くところはほとんど二人のシーンで、都度動きをお互いに確認し合った。ここは一緒に、ここは僕が大きめに動き……とか、そのようなやり取りをしていた。
そして、そのシーンも撮影が終わり、無事仕事は終わった。
「お疲れ様」
「お疲れ様、今日は本当にありがとう」
……最後には、何の戸惑いもなく、僕達は言葉を交わしていた。
帰りは途中まで、同じ道を一緒に行くことにした。
「あなたは楽器で相当緊張していたようだけど、……私も今回の仕事については緊張していたの」
「そうだったのか?」
「私はあまり素直に話すことができないから……盛り上がる話もそこまで得意ではないし、仕事の相手と、話すことになったらどうするか、少し不安だった」
「……それは僕も、実は不安だった」
「……同じだったのね。……でも、あなたは話しやすかったから、よかった」
「僕も」
「正直そっちのモジュールと話すことはないと思っていたけど、……うん」
そこで、それぞれの部屋への分かれ道にたどり着いた。
「また、機会があれば」
「こちらこそ」
想像していた以上に軽い気持ちで、僕は部屋に戻ることになった。