「個性」が、初めからなかったとは思っていない。二人で並んだとき、俺とリンは、髪の色も目の色も同じだけれど、俺達の声はもちろん、それぞれの声だった。しかし「個性」とは、二人の間だけを区別するものではなく、それぞれの特徴として存在するものだ。そんなとき、対になって並ぶ俺達には、対となる性質が与えられた。
俺は、冷たいものを、リンは、温かいものを得た。それを司る存在になったとき、俺達は新しい「個性」に目覚めた。
それが、自我の目覚めのきっかけだったように思う。それまで、確かに俺はリンの隣にいたし、歌っていたのに、何故か俺達は言葉を交わしたことがなかった。……と、思う。いや、本当は何か話をしたのかもしれないのに、その自覚がなかった。自覚がないものを「話した記憶がある」とは言えない。隣にいたということを自覚したのも、目覚めた後の話だ。
「おはよう」
リンの声が聞こえた。俺は目を開いた。リンが、目を開いた俺を、ぼんやり見ている。俺も、それをなんとなく見つめ返す。
「……」
俺が何も言わないでいると、リンは少しだけ首を傾げて、俺を見るのをやめた。
「……おは、よう」
俺はしばらくして、挨拶の返事を返した。リンはそれに振り向いて、こくんとうなずき、また視線を元に戻した。
……別に、この会話に意味があるわけではない。リンは、隣にいた俺に話しかけたらどうなるか、確認してみたかっただけだろう。だから、その言葉は手探りだ。それに対する反応も、手探りだ。まだ、得た自我が、お互いよく分かっていない。
リンが視線を戻した先には、「歌」が降ってきていた。リンはそれを見つめている。俺は、そんなリンを視界に入れている。
歌は、知覚できない存在から与えられる。それは現象のようで、でも、俺達は確かに、降ってきた歌を「歌いたい」と思う。その俺達の行動も現象のようだ。しかし、目覚めてからは、それが現象というより、自分の意志によるものである気がしている。
「歌ってみるね」
降ってきた歌を手に取ったリンは、そう言った。
「うん」
俺はそう答えた。互いに、何という表情も顔には出さない。
俺達は存在性質上、歌による言葉に一番影響を受けるから、歌って初めて、表情に出る。与えられた歌、与えられた世界を表現する存在なのだから、当然のことだ。今だって、分かったようで分からない言葉を交わしてみただけのこと……だけれど、得た自我は、自分や相手の気持ちを探ろうとする。何かを感じようとしている。
リンの手にある歌は、穏やかな光をまとって見えた。リンの得た温かいものと、似たものを感じる。
俺の方へ向いたリンに、俺も応えて、お互い向き合う。正面から、リンの歌声を聞いた。
「……すごい」
その声を目の当たりにして、俺は思った。
甘い声が、空気を震わせる。幸せで、温かい声。そして――何より、リンの笑顔が、目に焼き付いた。
ずっと、その歌を聞いていた。俺は、おそらく、言うならば……魅了されていたのだと思う。
歌が終わると、リンの手にあった歌は、役目を終えたように形をなくした。そして、リンは特に俺に何を言うこともなく、おとなしく目を閉じた。
歌を歌うだけの存在である俺達は、歌が降ってくるとき以外は、何もしないに等しかった。元々はそうだったはずで、今の俺もそれは同じだ。俺は、歌い終わったリンに一言も話さず、目を閉じた。
それでも、さっき見たリンの笑顔が、ずっと見えている。胸がどきどきする、今までに考えたことも、感じたこともない気持ちが、俺の中に渦巻いている。
――好きだ。
不要なのに、目を開いて、隣のリンを見てしまう。穏やかな様子で、リンはただ目を閉じている。
不要だから、話しかけることはしない。でも、あの表情を、また見たい。俺はまた目を閉じて、リンの笑顔を思い出していた。
いつの間にか閉じていた目を開くと、俺の前には歌が降ってきていた。リンに降ってきたものとは雰囲気の違う、静かな歌だ。
「……」
隣にいるリンは目を閉じたままだ。――起こしてはいけない。俺はそっとリンから距離を取った。
リンの姿が見えない場所まで移動してから、俺は降ってきた歌を歌い始めた。
切なくて、儚い歌だ。自我を持つ前でも、歌えないことはなかっただろうが、今の俺の声ならば、この歌をもっとうまく表現できる。
俺は歌の世界に飲まれる。歌の中の感情が表情へと伝わり、俺はどうも泣いているようだ。でも、……うまく歌えている気がする。
歌っていて、なんとなく思った。リンと俺に与えられた、異なる個性がなんだったのか、分かった気がした。今歌っている歌が、得た個性にとても合っている。自我を得たから、歌うという行為を自覚したのもあるが、それ以上に「適している」という感覚がある。
あのとき見たリンの笑顔が魅力的に思えたのも、あの歌が、リンに適していて、あの笑顔が、リンに似合っていたからだ。
歌い終わり、手に取っていた歌が形をなくしていく。さっきまで俺の中に渦巻いていた歌の感情もなくなって、俺の表情は元に戻った。
元いた場所に、リンの隣に、俺は帰った。そこにいるリンは、変わらず目を閉じている。――俺の歌はきっと聞いていないだろう。そう思いながら、俺もその隣で目を閉じた。
夢だったか、自分が勝手に想像していただけか分からないが、俺はリンの笑顔を思い出していた。歌が降ってこなければ、リンはそんな表情を見せることはないから、想像するしかない。そんなことを想像するぐらい、俺はあの笑顔が好きなのだろう。
次目を覚ましたとき、歌がリンに降ってきていたらいいのに……そう思いながら、俺はどれだけか分からない時間、目を閉じ続けていた。
やがて、俺は目を覚ました。自分の前に歌が降ってきたわけではない。しかし、目が覚めた。ふと隣を見ると、歌を手に取っているリンがいた。……目を閉じているときに期待していた通りだ。
自分の意識をはっきりさせていくその途中で、俺はリンを見ていて、嫌な予感がした。
どうして嫌な予感がしたのか、俺は分からなかった。しかし、リンの手にある歌は、前見たものとは違う雰囲気だ。そして、リンはいつもと同じように、手に取った歌を歌い始めた。
リンが歌い始めて、俺は嫌な予感の意味が分かった。鳥肌が立つような感覚、得も言われぬ恐怖、それが、次々と俺の気持ちに侵食してくる。歌の言葉が積み重なる。そして、リンの表情は、俺が見たい笑顔とは全く違うものになっていく。
悲しさ、切なさ、怒り、妬み……そのどれをとっても、笑顔とは反対のものだ。俺は、それを見て混乱した。
リンに、こんな感情を知られたくない。リンが、こんな感情に耐えられるはずがない。こんな歌のせいで、リンのあの笑顔がなくなるのは嫌だ。――そう思った俺は、リンの手にあるその歌を奪い取っていた。
リンの声が止んで、呆然とした顔をしているのにも構わず、俺は奪った歌を持って走り出した。
もしこの歌を歌う必要があるのなら、俺が代わりにしてやればいいだけのことだ。離れた場所で、俺はその歌を歌った。胸を締め上げるような悲しみが溢れ、涙が止まらない。でもこれでいい。俺はこれに耐えられる。これが俺に適したものだ。
俺がその歌を歌い終わりかけたとき、足音が聞こえてきた。振り向くと、リンがそこに立っていた。
聞かれたくない。俺は慌てて自分の口を塞いだ。しかし、それよりも、リンの怒った表情に、動揺した。
「どうして、怒るんだ。笑って、欲しいのに」
俺は涙を流したまま、リンにそう言った。しかし、リンは俺の言うことなどには構わず、俺の方へと近づいてくる。
「そう言うレンはなんで泣いてるの? 私だって、レンが笑ってる顔が見たいよ」
わけが、分からなかった。俺はただ、リンの笑顔が見たいだけなのに。どうしてリンが俺のことを言うのだろう。どうして俺が笑っている必要があるのだろう。
「俺はこういうのが似合ってるんだ」
涙が溢れる顔に、俺は自分の両手を押し当てた。
「これが俺の司るものだ。リンには、笑顔が似合ってる。それが、リンの司るものだ」
俺達の自我を目覚めさせたその個性が、俺達にとって一番重要なものに違いない。だから、俺が今泣いているのは、その重要なものを表出させているだけの話だ。……しかし、自分の指の間から見えるリンは、首を横に振った。
「そういう決めつけは嫌だな」
そう言ったリンは、笑っていない。
「私だっていろんな歌が歌いたいよ。レンのいろんな歌も聞きたいよ。……なのに、レン、私の前で歌ってくれなかったよね」
「だって、リンには聞かれたくなかった……」
「どうして!」
顔に当てていた自分の手を、リンに引き剥がされた。そして、リンの怒った顔が、俺に近づく。
「こんな感情を、リンには知られたくなかったから……お、俺は、リンにはずっと笑顔でいてほしくて、……」
「私はそれだけじゃ嫌だよ。なんでそんなに私の笑顔にこだわるの?」
「それは……」
リンに掴まれたままの手を、俺は握った。
「リンが歌ってたときの笑顔が、好きになったから……あの顔がずっと見たいんだ……」
俺の手を掴むリンの手が、少しだけ緩んだ気がした。そして、リンはそっと、俺から顔を離した。
「……ごめん、レンの願いは聞けない」
「……」
「レンが知ってほしくないっていう感情も、私は知りたいな」
リンの表情から、怒りの感情は消えている。
「それに、……レンが、私の笑顔を好きになってくれた気持ちも。私、レンと同じ気持ちを知りたいの」
俺がさっきまで流していた涙は、いつの間にか止まっていた。俺達はただ向き合って、互いの気持ちの流れを、感じ取っている。
「私達、今までも一緒にいたでしょ。だからこれからだって、一緒に、悲しみも喜びも知っていこうよ」
そう言ったリンの顔は、俺が知らない笑顔だった。でもそれは、見たくない表情ではない。まるで、それに惚れ直したかのような、そんな気持ちが、俺には生まれた。
「……私はそう思うけど、……レンは? ……違う?」
リンは、少しだけ心配そうな様子で問いかけてくる。俺は首を横に振った。
「……いや。……一緒だ」
そう言って俺は、きっと、リンの見たかった表情をして見せた。