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夢忘/無謀/夢望 - 1/5

 それは無謀なお願いだった。
「どうしても! 歌ってほしいの!」
 呆然とした顔をするレンの前で、リンは頭を下げる。
 皆が部活へ行った後、教室に残ったのは部活に入っていない二人だけになっている。掃除当番も終えたからそろそろ帰ろう、というタイミングで、リンは勇気を出してレンに話しかけた。……このお願いができる相手が、レン以外に見つからなかったからだ。

 まだ夏の暑さが残る今、リンが通う高校では、一か月ほど先に文化祭を控えている。有志で結成される文化祭の実行チームを中心として、様々なものが企画される。文化部にとっては、文化祭が成果発表の場であり、ここが一年の中で一番大事なものである部が多い。運動部についても、各部活が出店をやるのが例年の習わしだ。つまり、部活に所属している人は、何かしらの形で文化祭に向けて準備をしている。
 一方、企画の中には、屋外に作られたステージ上で行われるものと、体育館の中のステージで行われるものがある。司会進行はどちらも実行チームで、文化祭の開催宣言、終了宣言や、目玉企画は屋外で行われる。そして、体育館の中では、各クラスの代表がステージで出し物をすることになっている。
 この、体育館の中のステージ企画で「クラスの代表がやる出し物」というのは、基本的にはなんでもよく、過去には手品を披露した人、大道芸をやった人、漫才をやった人たち……などが、いるらしい。部活とは違う分野で、特技を披露する場になっている。
 しかし、部活に入っている人たちは、部活の方で準備が忙しい。そうすると、部活に入っていない人……いわゆる帰宅部が、クラスの代表を頼まれてしまう。
 そういう事情があり、帰宅部であるリンは目をつけられてしまった。しかしリンは、ステージで披露する特技も、そもそもステージに立つという度胸も持ち合わせてはいなかった。
 困り果てたリンは、学級委員を務めているクラスメイトに相談をした。
「鏡音くんに、歌ってって頼んだら?」
 クラスメイトの返答は、それだった。そのクラスメイトは陸上部に属していて、学級委員の役割もあり、いつもそれなりに忙しそうにしている。そんな中で、ちゃんと考えた上でそう答えてくれたのだ。
「鏡音くん、歌うまいよね」
「……確かに」
 音楽の授業で、レンの歌声は他の人のものとは一線を画していた。合唱の中においては紛れているが、意識して聴いていると分かる。隠しきれない才能、というのだろうか。何か、特別なものがある。リンもなんとなく感じ取ってはいたが、そのクラスメイトもそう思っていたらしい。
 そもそも、自分たちのクラスに帰宅部は少数で、レンはその中の一人だ。基本的に帰宅部に頼るしかないクラス代表の話なのだから、レンにお願いするのはおかしな話ではない。
「鏡音さんが頼んだらなんとかなると思うよ」
 だって名字一緒だし。……なんていう、あまり理由にならない理由をつけられた。しかし、リンもそれなりにはクラス代表に関する責任を感じていた。
 同じクラスでありながら、これまでほとんどレンと話すことはなかったが、クラスメイトの言葉を受け、リンは思い切ってお願いをすることにしたのだった。

「あの、私も、頼む以上は丸投げはしないつもりなので、……」
 リンは、抱きしめるように持っていた冊子の表紙を、レンの方へ見せた。有名曲を集めた、弾き語りの楽譜の本だ。
 リンの顔ではなく、本を持つ手に、レンは目線をやる。――とても、震えている。
「お前が歌えば?」
 ……とは、言えなかった。今にも本を落としてしまいそうなほどに震える手が、見えていないとは言えない。顔の方にちらりと目をやれば、今でこそ懸命ではあるものの、もし少しでもレンが睨めば、泣き顔に変わってしまうかもしれない。
 こうして勇気を出して話しかけてきた女子を、泣かせずに追い返す方法がレンには分からなかった。もし、泣かせてしまったら、泣いたまま教室を出た先で、それを誰かが見つけたとしたら。……分からない。気まずくなる以外は。
「伴奏は、私がやるので。だから、歌ってもらえたらって……思うんだけど……」
 声を振り絞って言うリンの言葉に、レンは驚く。
「伴奏? 弾けるの?」
「え!? あっ、……が、頑張れば、……少し」
 リンも、レンに聞かれて驚いた。実は、リンは少しだけ合唱曲の伴奏をやった経験がある。さすがに、ステージで披露できるほど上手にピアノが弾けるわけではない。だが、歌ってもらう上でなら、自分が力になれるかもしれないと思った。
 自分一人でステージに出るのは無理だと思いながらも、こうしてなんとかしようとしているあたり、リンは断れない性格なのだろう。――似た者同士だ。レンは思った。自分だって、ここで嫌だと言えないのだから。
「確認したいんだけど」
「え?」
「そのステージ企画、人はあまり来ないよな?」
「多分……?」
 レンがすぐに「嫌だ」と言わなかったことに驚きつつ、リンは記憶をたどる。文化祭は平日にやるし、部活に入っている人たちが色々やっているから、人はそちらにほとんど流れていて、ステージ企画に来るのはよほど時間がある人だけ……と、聞いた気がする。それなら全クラスから代表を出させる必要もない気がするが、慣例が破られていないということだろう。おそらく、教員の目もあるのだろうし。
「一曲やれば、それで認められるよな?」
「う、うん。ステージにさえ出れば……」
 あくまでも、一つのクラスが一つ出し物をするという条件を満たせばいいだけの話だ。
「分かった。一曲やって、やり過ごす。それで」
 レンは、冷静な声でそう言った。リンは、その答えに一瞬言葉を失ってから、確認する。
「……いいの?」
「他にあてもないんだろ」
「……」
 緊張の糸が切れ、リンは泣き出した。……泣かせないつもりで言ったのに。レンはため息をついた。
「いいけど、練習場所とか、あては? ここじゃできないだろ」
「そ、それなら……空き部室があるって教えてもらってたから、そこで」
「……へえ」
 レンは、リンの準備の良さに感心した。まだ目に涙を浮かべているが、しっかりはしている。二人とも帰宅部なのに部室を使うというのは変な感じではあるが、練習場所が存在するのは大事なことだ。
 二人は、そのまま空き部室へ場所を移した。

 現在存在する部活の部室は、大半が体育館や運動場の近くに位置している。二人が向かったのは、そことはかけ離れた場所にある講義棟の裏だ。選択式の科目を行うための教室がある講義棟は、授業以外で来ることはない。渡り廊下を介して来るのが普通だから、講義棟の外にどんな建物が存在するのかも、生徒たちは意識していない。
 でも確かに、そこには部室の建物が存在していた。周辺は草木が多く、若干薄暗い。
「あまり綺麗じゃないし、ちょっと暗いけど……」
「別にいいよ」
 申し訳なさそうに言うリンに、レンは答える。……少し暗い方が、安心する気がしている。輝かしい部活のメンバーではないのだし。
 目的の空き部室のドアには、ダイヤル式の南京錠が取り付けられている。事前に聞いていた番号に合わせて、リンは鍵を開けた。
 ドアを開くと、そこには机と数脚の椅子が置かれていた。壁際には棚があるが、何も置かれていない。埃っぽい空気が立ち込めていて、机なども薄汚れている。
「……掃除、からだね……ごめん」
 リンは首をすくめた。レンは、気にしなくていいと首を横に振った。それより、言っておかないといけないことがある。
「……あのさ、俺、あまり遅くまではいられないけど」
「……! ごめん! 普通もう帰ってる時間だよね」
「いや、多少はいい」
「で、でも、何も確認せずに私……今日言って急に……」
 またリンが泣き出しそうになって、レンは困惑する。言うタイミングを間違えたかもしれない。
「それはいいから!」
 泣かれるより前に、レンはなんとか言葉を差し込んだ。
「まだ、文化祭まではそれなりにあるんだし、……詳しい話は、また明日でいいか」
「うん! それまでに掃除しておくね!」
「……掃除は俺もやるよ。そっちも普段は帰ってるだろ? 明日で――」
「私がお願いしてる身だからいいの! これぐらいさせて!」
「……」
 ここは、素直にリンの申し出を聞いておいた方が良さそうな気がする。レンはそれ以上言わないことにした。
「じゃあ、また明日」
「うん、また……」
 レンが去っていくその後ろ姿を、リンはしばらく見つめていた。その姿が見えなくなってようやく、リンは大きくため息をついた。
「よかったぁ……」
 その場に座り込んでしまいたくなったが、埃で制服が汚れてしまいそうなので、なんとか座るのは踏みとどまる。
 しばらく立ったままでいたが、掃除をすると宣言したことを思い出す。引き受けてもらったのだから、できることは全てやりたい。リンは気持ちを切り替え、部室の中の掃除を始めた。

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