文化祭が終わってから、リンもレンも、放課後はまっすぐ家に帰る日々に戻った。それまで毎日のように二人で空き部室へ向かっていたが、その必要がなくなった。
駅までの道を歩きながら、リンは肌寒さを感じていた。もう季節は秋になり、衣替えもした。先週なら、部室で練習をしていた時間、それより前は隙間だと思っていなかった時間が、すかすかに感じる。
だが、レンとの接点が全くなくなったわけでもない。同じクラスだからお互い顔は見ているし、朝会ったとき、放課後に皆がいなくなった教室で二人になったとき、挨拶を交わすようになった。確実に、文化祭をきっかけに仲良くなった。
そんなある週末のこと、授業が始まってから、天気が急に悪くなりはじめた。土砂降りの雨になり、昼には雷も鳴り響いた。外の部活は取りやめが決まり、放課後になると、生徒はすぐに帰り始めた。
家が近いレンは、急がずに教室に残っていた。クラスメイトが皆帰っていく中で、なぜか、リンは自分の席に座ったままスマホを見つめていた。
「どうした」
気になってレンは近づいてみる。リンが見つめていたのは、電車の運行状況のページだった。そこには「運転見合わせ」の文字が見える。
「リン、……電車止まったのか?」
「……うん」
リンが向かう先の駅は遠い。そのあたりは学校周辺よりもっと雨風が強く、そのせいで電車が止まってしまったらしい。
「……どうしよう……、今日、親両方仕事でいなくて……」
「帰れないってことか?」
リンは静かにうなずいた。レンは、教室の中を一度見渡す。いつの間にか皆帰ってしまっている。この雨なら仕方ないかもしれない。
「ずっとここにもいられないよな。……うちの親に、車で送ってくれって頼んでみる」
「え?」
「うちの親も仕事だし、ちょっと帰り遅いけど、多分頼んだら送ってくれる」
リンがよく分かっていないうちに、レンはもう自分のスマホで親にメッセージを送っている。そして、まもなく返事が返ってきた。
「いいって」
「え……いいの?」
「他に頼むあてないだろ。これぐらいいいよ」
「わ、私の家遠いよ……?」
「大丈夫だろ、多分。とりあえず、一旦うちに帰ろう」
レンはそう言うと、鞄を肩にかけた。
「……どうしたんだよ」
「家……に行くってこと?」
「そうだけど」
「いいの?」
「だからいいって」
いちいち遠慮するなよ、と少しだけリンを睨んで、レンは歩き出した。リンは慌ててそれについていった。
レンの家は本当に学校から近かった。普段駅まで歩くのと、そこまで変わらない時間で着いてしまった。
「ほんと酷い雨だな……」
その短時間でも、服はすっかり雨で濡れてしまった。玄関で、リンは自分のハンカチで服を拭く。レンは濡れたままで部屋に入っていくと、タオルを二つ持って玄関に戻ってきた。
「いいの? はもうなしだからな。上がって」
リンが言う前にレンは言って、タオルを片方リンに渡してきた。リンは何も言えずにうなずいた。
玄関からすぐに見える階段を上がる。そして、すぐそこにある部屋のドアを開ける。
「人呼ぶ予定してないから汚いけど」
ベッドと勉強机、床には折りたたみ式のテーブルが置かれている。つまり、そこはレン個人の部屋だ。本当は別の部屋に連れていくか迷ったのだが、あいにくどこも人が呼べる状態ではなく、妥協して自分の部屋にした。
部屋の隅に追いやられていた座布団を二つ引っ張り出し、床に置く。親が帰ってくるまではまだまだ時間があるので、レンはリンを座布団に座らせ、自分も座布団に座った。
レンは、少しだけ悩んでから、スマホの画面に目線を落とす。そんなレンを見てリンは、自分もスマホを取り出しつつ、せっかく家に帰ってきたのに、自分がいるせいで何もできないだろうな……と思った。
スマホの画面を見ていても、何をしようか迷って気が散ってしまう。視界に入る本棚が気になってしまい、リンはそこに視線を向けた。三段ある中の一番下は教科書やノートの類、一番上は漫画や文庫本がちらほらと並んでいるようだが、真ん中の段には、何かのファイルの背表紙がずらりと並んでいて、その右には楽譜の本がいくつかある。そして、文化祭のときに使った楽譜の本が、一番右に入れられている。
「……どうした?」
「あっ……」
本棚に視線を向けていたことに気づかれてしまい、リンは慌てる。でも、このまま喋らずに過ごすのも気まずい。
「楽譜の本だな……って」
「……ああ」
「端っこの……前に使った本?」
「うん」
「……レンって、歌、家で音取りしたんだよね?」
「一応な。それが?」
「キーボードとかここにあるの?」
「いや、ないよ。タブレットのアプリ使って弾いてみただけ」
「そ、そうなんだ……」
確かに、勉強机の上にはタブレット端末が置かれている。そういうアプリがあるのか、とリンは少し驚いた。
「で、でも、弾けるんだね」
「メロディーだけだよ。リンみたいに伴奏は弾けない」
「それでも十分すごいよ。楽譜読めるってことでしょ」
「中学校の授業並みだよ。それに、アプリ使って、楽譜通りに音程と音符の長さ打ち込めば、それ聞いて確認とかできるから」
「な、なるほど……」
知らないアプリの機能に驚きつつ、そんなアプリを活用できるということは、もしかして……と、リンは思う。ずっと、聞こうと思っていたことだ。
「レン、何か音楽やってたりするの?」
「……え」
「歌、あんなにうまいし」
レンは一瞬顔をしかめかけて、とっさにやめた。
「……やってないよ」
「で、でも、あんなに楽譜――」
「リンは?」
レンは、リンの言葉を遮った。
「気になってたんだよ。リン、独学でどうやって伴奏なんか弾くようになったんだ? ピアノ習ったとかじゃないんだろ?」
「わ、私は……」
「家にキーボードあるんだったよな」
「う、うん。……うちのお母さんが、多趣味で」
「うん」
「弾きたくて、簡単な楽譜の本とかキーボードとか買ったみたいなの。小学生になるより前だけど、お母さんがはまってるときに、弾き方とか楽譜の読み方とか、色々刷り込まれたの」
「すごいな」
「お母さんは全然弾かなかったけどね」
「そうなのか?」
「飽き性だから」
リンの言葉にレンは笑った。それまでどこか暗かった気がするレンの表情が変わって、リンは少しほっとする。
「リン、絵も好きって言ってたっけ。それもお母さんの影響?」
「うん。大体お母さんに色々やらされたからだよ」
「すごいな……」
「キーボードもすごく好きだったとかじゃなかったし、やらされてたときは大変だったよ」
「でも、おかげで文化祭のステージがなんとかなったってことだな。リンがたまたま言われなきゃ、うちのクラスは何もなかったかもしれないし」
「そ、それは、レンのおかげだよ! レンが歌ってくれたからうまくいったの!」
「……」
レンは、返答に詰まってしまった。そこにリンが、再度問いかける。
「レンもやっぱり、何かしてるよね?」
「してない……」
「でも、……楽譜だよね」
本棚に目をやり、リンは言う。レンはうつむき、小さな声を出す。
「……昔のだ」
「やってた、ってこと?」
「言うほどのことじゃない」
「……気になるよ。だってレン、歌本当にうまいし、あっ、実行チームの人も言ってたでしょ? もったいないって、だから――」
「なんなんだよもったいないって」
急に強くなったレンの声に、リンは怯んだ。
「大したことないんだよ。俺は人前で歌いたくない」
「……、え、ならなんでステージは……」
「聞く人が少なそうだから引き受けたんだよ。後で聞いたらリンも災難だったみたいだし。それ以上ないから」
名残惜しそうに本棚に目線を向けるリンを、レンは睨む。
「この話はもうやめてくれ」
リンは、声を出さずにうなずいた。そこから、二人の間には気まずい空気が流れた。リンは、スマホの画面をつけることすらできず、ただじっと座っていることしかできなくなった。
あまりに時間の進みが遅く感じる沈黙の中で、レンが持っていたスマホが、音を鳴らした。――メッセージの通知だ。
「そろそろ帰ってくるらしいから。……もう少し待ってて、……」
静かに、リンの方は見ずに、レンは言った。
「……ごめん」
リンは、ほぼ聞こえない声で言う。
「……」
レンは何も答えずに、母親から来たメッセージの文字を見つめた。
それから何分かが経ち、玄関のドアが開く音がした。レンに目配せをされ、リンは立ち上がった。
階段を降りると、玄関にはレンの母親が立っていた。リンはすぐに頭を下げた。
「は、初めまして……」
「送ってやって」
リンの挨拶もそこそこに、レンは言った。レンの母親はうなずいてから、首を傾げる。
「レンは乗っていかないの?」
「俺、頭痛いから寝る。適当にしてくれ」
困惑する母親をよそに、レンは背を向けて、階段を駆け上がっていってしまった。
「……帰りが遅くなっちゃうわね。行きましょっか」
「は、はい! ありがとうございます!」
リンは、レンのいなくなった方へ少しだけ振り返って、それから外へ出た。
車に乗り込み、まずはカーナビに目的地を入力する。予定到着時間は三十分ほど後だ。
「いつも遠くから通ってるのね」
「すみません、本当に遠くて……」
往復で一時間を過ぎてしまうことになる。夕ご飯もそれからになるだろうし、リンは本当に申し訳なくなった。
「いいのよ。リンちゃんも早く帰りたいでしょ? ……あ、でも、家の方は雨大丈夫なの?」
「多分大丈夫だと思います」
雨がフロントガラスに叩きつけられる中を、走っていく。レンの母親は、運転しながらリンに話しかける。
「ご両親がお仕事って聞いたけど、帰りは遅いの?」
「はい、今日は夕方から朝までで……」
「え、それなら夕ご飯は?」
「じ、自分の分だけ用意するつもりで……」
「そうだったの!? だったらうちで食べていけばよかった?」
「い、いいです! お気持ちだけでも……」
「それに夜もおうちに一人なんでしょ? こんな雨なのに……明日休みだし、こっちで泊まっていった方がよかった?」
「そ、それはさすがに悪いです!」
「あっ、ごめんね! さすがに急すぎるわよね……」
よく考えたら部屋を片付けるところからだった、とレンの母親は恥ずかしそうに笑って、リンも苦笑いした。……つい最近話すようになった、異性のクラスメイトの家にお世話になるというのは、さすがに心が休まらない。
「あの、本当に送ってもらえるだけでもありがたいので。……レン、が、気遣ってくれたから……こんな……」
気まずくなったときのレンの表情を思い出しながら、リンは言った。あんな空気になってしまったけれど、レンは本当に優しかった。レンが声をかけてくれなければ、今頃途方に暮れていたに違いない。
「ちょっとびっくりしたけどね。レンが他人を気にかけるなんて。……でも、さっきはごめんなさいね、あんな無愛想な――」
「違うんです! あれは私が悪くて。私、レンを怒らせちゃったみたいで、……歌、うまいのにって……言って……」
「……歌?」
「そ、そもそも私が悪いんです。私が、文化祭でステージに出て歌ってほしいって無理にお願いして、レンが引き受けてくれて……人前で歌うの、本当は嫌だったみたいなのに、……」
「レン、人前で歌ったの?」
レンの母親が少し驚いた顔をして、リンは萎縮する。
「あ、そんなたくさん人が来るステージじゃなかったんですけど、でも、ご、ごめんなさい……」
「いいのよ、リンちゃんが謝ることじゃないわ」
赤信号で停止したところで、リンは微笑みかけられた。
「大丈夫よ。あの子、歌は好きなはずだから」
「え、でも……」
「きっと複雑なのよ。小さい頃は本当によく歌ってたし、友達ともよく歌ってたみたい。最近は全然歌ってくれないけど……さすがに親の前じゃ歌えない年頃かもしれないわね。また聞かせてくれないかな、って、思わなくもないんだけど」
信号は青に変わり、前を見つめるレンの母親の横顔を、リンは見つめる。その表情はどこか残念そうだ。
「高校に行く前まではね、よく友達が家に来て、その子とよく歌ってたみたい。でも、その子とは別の高校になって。それからはあの子、きっと、そういう仲間を見つけられずにいるのよ」
レンの部屋にあった本棚のことを、リンは思い返した。あの真ん中の段の楽譜の本は、もしかしてその頃のものなのだろうか。
「それも半年以上前の話だからね。でも、その後にまた歌ったなんて……リンちゃんが言ってくれたから?」
「私が困ってたから仕方なくだと思います……で、でも、本当にレン、歌が上手で……歌ってってお願いしたのも、音楽の授業で聞いててそう思ったからなので」
「ありがとうね。……あの子全然、文化祭のステージに出るなんて言ってなかったけど、そういうことだったのね」
「えっ」
「しばらくちょっと帰るの遅くなる、としか言ってなかったのよ。でも、普段より楽しそうな顔はしてたわ」
「楽しそう……だったんですか?」
「うん、いつもは不機嫌そうなのに。さっきみたいにねぇ、もう」
「あ、あはは……」
「本当に面倒なところあるけど……もしかして、リンちゃんには心を許してるのかもね」
「……」
そう、だったのかな、と、リンは思った。思い返せば、本番までの何日もの間、レンは想像していたより優しくて、たくさん話をしてくれた。あれがレンの素であるのか、リンに対する気遣いなのかは分からない。リンが気の許せる相手だったからそうだとは言い切れないが、もしあの間がレンにとって楽しかったのなら、そうだったらよかったのに……と、願ってしまう。
リンの家のある町にさしかかると、いっそう雨が強まってきた。
「いつまで降るのかしらねぇ……本当に一人で大丈夫?」
「は、はい。雨も朝までにはやむみたいですし」
リンは、スマホで天気予報を確認してみる。雨のピークは今夜のようだ。
「こちらこそ、こんな雨の中ありがとうございます」
「私は車の中だから大丈夫よ」
「それに、夕ご飯とか遅くなっちゃいますよね、ごめんなさい」
「それも大丈夫よ。レン、寝るとか言ってたし」
多分、レンは適当にそんなことを言ったのだろうが……今頃家で、どうしているのかな、と、リンは心配になった。あの空気のままで別れてしまって、リンも不安だが、レンはもっとそうなのかもしれない。
そうして、車はリンの家の前に到着した。
「ありがとうございました」
「いえいえ。……リンちゃんがよければ、これからもレンと仲良くしてあげてね」
「……はい」
リンはうなずいて、車を降りた。
雨も相まって外は寒いので、車を見送ってからすぐ、リンは家に入った。誰もいない家の電気を点けて、ひとまず自分の部屋に荷物を置く。
仲良くしてあげて、と言われてしまった。リンの頭の中で、その声が何度も響く。一緒に練習をしていた間、レンとは仲が良かったと言えるのだろうか。レンが優しいから、気を遣ってくれていただけなのかもしれない、と思ってしまう。
でも、レンにはせめて、今日の送迎のお礼を言いたい。……気まずいままは、嫌だ。……できればまたあんな風にレンの歌を聴きたい……なんて、それは高望みかもしれないが。
リンは、週明けにレンに話しかけるための言葉を、頭の中で浮かべては組み立て続けた。