リンやレンがお世話になっている事務所は、歌を仕事にするアイドルや研修生が所属している。そのため、歌の練習をするためのレッスン室が充実している。
練習に明け暮れるのが好きなレンは、いつも一つのレッスン室を終日予約している。リンはそれに便乗して、同じレッスン室を使わせてもらっている。
……レンは相方だし、一緒に練習することは多い。相方だから、同じ仕事もあるし。借りるときの名義がレンになっているというだけで。
今日もそういうわけで、レンが貸し切りにしているレッスン室の前にやってきた。レッスン室を使う人は、部屋のドアに取り付けられた枠に、自分の番号を書いたプレートを入れる決まりになっている。既にレンのプレートが差し込まれているので、リンは隣接している枠に自分のプレートを差し込む。そして、レッスン室のドアを開いた。
中では、既にレンがボイストレーニングを始めていた。多分、ロングトーンだ。できるだけ長く、同じ音量で声を伸ばす。部屋に入った時点から数えても、充分な長さで声を伸ばしている。……あんなに伸ばせないな、とリンは思った。
声を出すのをやめると、端末を少し触ってから、レンはリンの方を向いた。
「今のロングトーン?」
「うん」
触っていた端末の画面を見せてもらうと、伸ばしていた秒数や、評価が表示されていた。評価は「S」……最高評価だ。
「自分一人でやるよりいいな。こうやって客観的な評価が出ると」
〈れな〉のタスクシステムに、レンは満足しているようだ。
「すご……」
きっと、今までレンがやっていた練習が間違っていなかったのだろう。リンはそう言うことしかできなかった。
レンはそれに構わず、自分の隣の空間を指差した。横に立てということだ。
「確か、リンの方に出てたタスク、俺の方にもあったから、一緒にやろう」
待っていてくれたらしい。リンはこくんとうなずいて、レンの隣に並んだ。
一緒に、画面を操作する。発声練習の星ひとつが一緒だ。それを選択して開くと、練習内容の概要が表示される。
《先に流れるメロディーを聞き、それを繰り返して歌いましょう》
「同期取れるのかな。……ん、できそう」
レンが、画面を色々と操作する。リンの画面では、下から「!」のついた吹き出しが現れた。吹き出しを押すと、概要の下に説明が表示される。
《同時練習の申請が来ています。:鏡音レン》
「それ、押して」
「う、うん」
よく分かっていないが、レンに言われるがまま、「申請許可」を押す。画面の真ん中に「スタート」と表示され、それも押す。端末は一旦、手前にあるテーブルに二人で並べた。
よく聞く発声練習のメロディーが流れる。続けてそれを繰り返して歌う。レンが歌うのを横で聞きながら、リンもそれに合わせて歌う。
だんだん音程が上がっていく。ちょっと苦しいが、レンの歌声が全くぶれていないので、リンもなんとか頑張って歌う。……さすがに、レンより高い声が出ないなんて恥ずかしい。
次はさすがに厳しいかな、と思ったところで、メロディーは鳴り止んだ。
「お、終わった」
「?」
思わず言うリンに、レンは首を傾げたが、リンはなんでもないと首を横に振った。自分の端末を手に取ると、画面が切り替わった。
《お疲れ様でした!》
《評価:A》
《よく頑張りました!》
メッセージの横には、笑顔の絵文字が出ている。かわいいなぁ、と思いながら、レンの方の画面も見る。
《お疲れ様でした》
《評価:S》
すごくあっさりしている。デザインらしく、クールな感じといったところ……だが、それより、今回も最高評価である。
「Sだね」
「うん、うまく歌えたと思う」
「確かに、レンうまかった」
Aでもよくないわけではないと思うが、やっぱりレンは完璧だ、と、リンは思った。
「リン、後半苦しそうだったもんな」
リンの画面をちらっと見て、レンは言った。……さすがに、横で聞いていたら分かってしまうか。
「う、で、でもAだもん。頑張ったよ! 〈れな〉もそう言ってくれてるし!」
「それはそうだけど。こんなの基礎の基礎だぞ?」
「……」
〈れな〉は励ましの文章を表示してくれているのに、すぐ横のレンが厳しすぎる。リンがしょんぼりしていると、レンは少し間を空けてから、リンの目を見た。
「……高音にいくにつれて、苦しそう、って考えてないか? それが声に出てるのかもしれない」
「……たし、かに」
「音程自体はおかしくなかったから」
「……そう?」
「うん」
的確で、ただ厳しいだけではないレンの言葉に、リンは驚いて、でも、安心した。〈れな〉よりレンに教えてもらう方が、うまくなる気さえする。
「……あの、さ、リン」
レンはそう言いながら、レッスン室の隅にある椅子に座った。リンも、レンの横に座る。
「思ったんだけど。……リンのタスクが1個になってたのって、欠黒象のあれがあるからかもしれないな」
「……あ、……それ、考慮されたのかな」
「多分、な」
忘れていた……わけでは、ない。リンの、大事な使命。世界を危機から救う、使命。
『欠黒象』とは、突然現れる、空間を欠損させる現象のようなものである。それが現れると、そこから空間が黒くなっていき、そこにあるものがなくなっていく。放っておけば、世界は消えてしまう。――その欠黒象を、リンは自分の歌声で消すことができる。だから、世界を守る『修復者』なのだ。リンは、そういう意味でも周りからは有名だ。
欠黒象は頻繁に現れるものではないが、欠黒象を消すことができる能力の持ち主は多くない。身近な範囲では、リンとミクだけである。だから、その使命は重い。
端末には、もし欠黒象が現れたときは通知が来るようになっている。これまで、寝ているときに通知が来たことはないものの、学校にいる間に通知が来たこともある。周りには、そういう事情は伝わっている。
「今朝、なんて質問に答えたらこうなった、なんて言ってごめん。いざとなったら、歌の練習どころじゃないのに」
レンが深刻な顔をして謝ってくる。
「え、そんなのいいよ。……」
リンは全然今朝のことは気にしていなくて、レンが普段から厳しいのにも慣れているつもりだ。だから、謝ってくること自体が不自然に思えてしまう。
「欠黒象も、歌がうまくないとちゃんと消せないみたいだし……ミク先輩に助けてもらわないとだめだったりするもん。だから、ちゃんと頑張んないと……レンが練習に誘ってくれて、助かるよ」
リンが言うと、レンは安心した顔で笑った。
「そっか。……なら、今後もしっかり練習頑張ろうな?」
そして、いつもの厳しい顔になる。
「ほどほどにお願いします……」
リンは肩をすくめて苦笑いした。
さて、まだタスクは残っているし、とレンが椅子から立ち上がったそのとき、リンの端末から大きな音が鳴った。
「うわ!?」
噂をすれば……と言ったところなのか、それは欠黒象の出現を知らせる通知音だった。
「欠黒象?」
「うん。――行ってくる」
リンは端末を握りしめて、急いでレッスン室を出た。