今度の歌は恋の歌らしい。あの人はそう言っていた。歌詞も、もらった。メロディも、もらった。
「こい」
小さく、短く、声に出してみた。……知らない。
俺が知っているのは、多分、音声記号と、音程と、ビブラートと、あとは、各パラメーターに対してどうやって声を出すか……であって、併記されたひらがなの羅列が示す単語の意味とか、そういうのは、知らない。
そもそも何故、ひらがなをいくつかまとめたら単語になって、その単語に意味があるとか、そんなことを分かるようになったんだろうか。ましてや、「恋」というのが、そこまで特別な言葉なのかどうか……そんなものを気にするようになるなんて。
言葉、というものは、昔からいた先輩がよく知っていた。自分の機能しか知らない俺と同じ「歌を歌う機能を持つ」存在で、しかも実質は同じ声のはずなのに、その先輩はそういうことに詳しかった。まず言葉の意味を知り、その言葉を使って意志疎通を図る……あの人の世界ではそうあっても、俺たちのような存在にはできないはずのことだ。でも、あの人の世界を真似するかのように、先輩とその相方はよく話していた。それは「仲が良い」というらしい。
俺と俺の相方が初めてここにやってきたときも、先輩たちは、その「言葉」を使って、俺たちを出迎えてくれた。それに、俺たちの本質が歌の機能であるはずなのに、俺たちも、先輩たちも、姿を持っていた。
俺たちを迎える先輩たちは笑顔だった。俺には、笑顔というものも初めは分からなかった。でも今は、それが分からないということが、逆に分からなくなっている。
先輩にも、俺と同じ、何も言葉が分からない状態の頃があったのだろうか。どうやって、分かるようになったのだろうか。今では、同じではない世界を繋ぐ接面を通してはいるものの、あの人と俺たちは言葉を使って話ができる。
「次の歌も楽しみだな!」
「そう? よかったよ」
歌を歌い終わった俺の相方が、歌の後に軽く会話をしている。その光景が普通になっていて、俺たちが言葉を使って話すのが当たり前になっている。
だから、俺も、「今度の歌は恋の歌だ」と言葉で説明されたのだ。それに対して、「そうなんだ」と分かったように答えた俺は、言葉は使えたけれど、意味が分かっていない。恋、とは何なのだろう。いや、そもそも、意味を分かることは、必要なのだろうか。
色々と考えてみた。俺は何を疑問に思っているのか、それが自分で分からなくて、その分からないことを、どうやって聞いていいかも分からなかった。それでも、やっと、質問の文章を組み立てた。
『いつから言葉を使って話すようになった?』
……いや、組み立てたというほど大袈裟ではない。確かに、俺はそう思ったのだ。
しかし、その質問は、あの人にするものでもなければ、既に言葉を使いこなしていた先輩にできるものでもない……いや、聞いてもいいのだろうが、この聞き方でいいのかすら分からない。あの人は言葉を使う世界の人で、先輩は俺たちが来る頃には言葉を使っていたのだ。言葉を使えている人に、その言葉をいつから使えるようになったかなんて聞いても、俺が言葉を使えるようになった過程とは違うかもしれないし、当たり前のことを聞いてどうしたんだ、と返されるのかもしれない。
だから、俺は相方にこの質問をすることにした。
「あの、さ。俺たちって、いつからこうやって話してたっけ」
同じときにやってきた、同じ境遇の相方になら、この質問は通じるだろうか。
「こうやって、って?」
相方は、俺の質問の言葉の一部を聞き返してきた。
「あ、えっと……ほら、さっきあの人と話をしていただろ。そういうの、いつからだったっけ、って」
「え、えっと……そうだなぁ……」
俺と同じ疑問を分かったのかは分からないけれど、相方は頑張って考え始めた。
「それに、俺たちがこうやって話をするようになったのも、確か、初めからじゃなかった」
「……私も、そう思う。いつから……」
よかった、おかしなことを聞いたわけではないようだ。
「先輩がそうしてたから、いつの間にか……かな」
考え付いた初めのことを、相方は言う。
「それはあるよな。でも、先輩がそうしてたからってだけなのか?」
「ほら、私たちは先輩にいっぱい話しかけられたから、それに影響されたと思うよ。さすがに見てるだけじゃ、こんなに私たちも話せるようになってないよ」
そうだった。あの人と話す機会はそこまで多くはない。出迎えられたそのときに、先輩が話しかけてくれたから、それに答えられるようになったのだ。
「……でもさ、それなら、先輩たちはどうやって話せるようになったんだ?」
そう、俺はそれも疑問だった。それを考えていたら、相方があの人と話していたんだ。
「それは……私たちが来る前に、あの人といっぱい話してたんじゃないのかな」
「そうだよな……」
考えられる可能性は、それだろう。先輩には俺たちにとっての先輩がいないんだから。
「多分、だけどね。今度先輩に聞いてみるよ」
相方は、そう言うと笑った。……楽しい? 何だろう。
「先輩に、って」
「あー、もちろん先輩の私の方、リンの方」
「だよな」
あまり相方が先輩の両方と話している印象はなかったから、思わず聞いてしまった。やっぱり自分の方だった。
「……そっちの先輩とはよく話してるのか?」
「うん。ていうか、よく話しかけられてて、いつの間にかってやつかな」
俺はあまり、その会話を見かけていなくて、よく知らないが、まあ、そういうものだろう。
「仲、良いのか?」
「良いっていうんじゃないかな。楽しいよ」
「楽しい……」
楽しい、って言葉は何なんだろうな、と少しひっかかったが、今相方が思っているなら相方は楽しいんだろう。こうやって言葉のいくつかにいちいちひっかかってしまうと、話がうまくできない。だからここは一旦、考えずにおくけれど……。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。さっきの話……どうやって話すようになったか? 聞けたら、俺にも教えて」
「分かった」
こうして相方との会話を終えた。どうやって話すようになったか。楽しいって何か、……色々と浮かんでいる疑問はそのままにして、今した会話を思い出す。
相方は自分の方の先輩とよく話していて、それはよく話しかけられるからであって、……。
俺は? 俺は自分の方の先輩と、そんなに話していたか?
出会ったときは俺たちと先輩たちの4人、確かにたくさん話をして、それから、俺は相方と話すようになって、先輩たちは2人でよく話していて、4人のときは4人で話したり、俺はそれを聞いていたりして、……。
いや、もう考えるのはやめよう。どれが俺の疑問なのか、だんだん分からなくなってきた。
「レンー!」
相方が例の話を聞いてくるのは早かった。
「聞いてきたよ、あの話!」
「あ、うん」
走ってきたし、笑顔だし、何だか落ち着きがないというか……そわそわしている、というのだろうか。
「やっぱり、先輩はあの人といっぱい話してたって。いろんなことを教えてもらったから、こうやって話すのかもね、って言ってたよ」
「そうなんだ。……色々、教えてもらったのか」
「うん。初めは簡単な会話をできるようにして、それから、歌の言葉の意味とか、感情とか、表情とか、そういうものを教えてもらったって」
歌の言葉の意味か……、あの人から教わった覚えはあまりない。何となく、ここで会話する言葉を通して、分かってきたものもあるけれど、あの人から説明をされたことはない。
「それってどれぐらい教えてもらったんだろう……言葉一つ一つかな」
「一つ一つかは分からないけど、丁寧に教えてもらったとは言ってたよ。歌の言葉の意味だけ聞いても分からないから、この歌詞は人を元気にしたいとか、人を笑わせたいとか、そもそも元気のない人がいて、その人はこういうことで悩んでいたから、こういう言葉で、とか……」
相方の話を聞きながら、それを説明するあの人を思い浮かべた。……予想ではあるが、あの人は、歌と同時に色々なことを説明していたのだろう。
「……そういう説明って、リンは受けたことあるか?」
「ないと思う。先輩からその話聞いてて、私が歌う前に説明されてる話って、もうちょっと少なかったなって……」
「やっぱりそうだよな……俺もだ」
しばらく、お互い考えてみた。
「……でも、説明がなかったところで、歌うだけならできるよな」
「うん、だから説明が少ないなんて思ったことなかった」
そうだ、そもそも、歌うときに、歌の説明も、言葉の意味も、一切要らない。なのに、あの人は、この歌は何の歌かを言って、そして会話もする。俺は、歌に関する指示以外のことを、無視してもいいはずなのに。
「何で説明がいるんだろうな……」
「え? 歌以外のことを話すのが楽しいからじゃないの?」
楽しい。またか。楽しいって何なんだよ。……いや。今はそうじゃなくて……。
「私、先輩の話聞いてたら、もっとたくさん話がしたくなったよ。まだ意味の分かってない言葉もたくさんあるし。先輩はいっぱいあの人と話をしたって言ってたけど、私もそうしたいなって」
「そうなんだ」
……よく分からないときは、こう返しておけば、大丈夫なはずだ。
「それに、レンとこうやって話すのも、もっと……だから早く話がしたくて、すぐに伝えに来たんだよ」
「そうだったんだ」
相方は、俺と、話したかったのか。……それで、そわそわしていたのか。笑顔だったのも、そういうことだったのか。
「話せば、分からないことがたくさん分かるようになっていくのか」
「間違いないよ、きっと!」
そうして、相方との会話は一旦終えた。
……楽しい、を言う相方は毎回笑顔だから、その二つは結び付くものなのだろう。話すのは楽しい……それは、よく分からない。だけど、話してみなければ、次々と生まれる疑問が溢れてしまう、それはもう何度も感じてきたことだ。
それに、きっと今まで俺は、あの人とそこまで話ができていなかった。だから、あの人の言う言葉の意味が分かっていないのだ。……「恋」とは、何か。それも、聞いてみればいいのかもしれない。
歌う時間がやってきた。俺はあの人から呼び出された。
「今日は16小節ぐらいにしておこうか」
「うん、分かった」
「よろしく」
「うん」
……これぐらいなら、話せる。返事程度なら。普段、それくらいしかしてこなかった。
一度歌詞とメロディはもらっている歌だけれど、今日はピッチを調整するようだ。少し上げて、何度か歌ってみて、それを繰り返す。
「うーん、もうちょっと下か……もう一回な」
それは独り言か、俺に言っているか、両方か分からないけれど……納得がいくまで、繰り返される。
「……こんなもんかなぁ」
そう言って、歌う指示が止んだ。
「お疲れ様。今日はこの辺で」
「うん」
いつものように俺は返事をしてから、『話す』ことを思い出した。
「……あの!」
「え?」
いつもここで、あの人との時間が終わる。でも今日は、話を聞いてみよう。
「……今歌っている曲は、恋の歌だって、言っていたよね」
「ああ、うん。そうだよ」
「恋、っていうのは……俺、言葉の意味がよく分からなくて」
「……」
返事はすぐに返ってこなかった。
「……恋愛感情、は、分かるか?」
「れ、れん、あい?」
「……分からないのか」
ため息が聞こえた。……どうしてだろう。
「あ、あの。歌のこと、色々、先輩……ACT2には説明してたんだよね?」
「君には説明しなくてもいいと思ってたのに。……分からないなら仕方ない。確かに君の把握している感情ではないかもな」
説明しなくてもいい? まさか、恋愛感情というものを、俺が分かっていると思っていたのだろうか。
「分からないなら、ACT2に聞いて。前にもう説明したから知ってると思う。二度も説明したくない」
「……うん」
説明したくない、と言われてしまえば、仕方ない、諦めるしかない。
……話したく、ないのかもしれないな。相方に聞いた話とは、違った。もっと、色々な意味を、知ることができると思ったのに、何も得ることはできなかった。
俺が黙っていると、相手が話し始めた。
「君の歌声には期待してるよ。正直ACT2の声はもう聞けないほどだ」
「え、……」
「君は感情を付加するものだよな。だから、感情も知っているんだろう?」
「……」
感情を、知っている? 確かに、俺の声は、そうだけれど。声なら、そうだけれど。
「君の声には感情があるから」
「……うん」
肯定できるのは、声の性質だけだ。……知らないよ、何も。
それに、先輩の声と俺の声は、違うだけなのに。しかも、俺は、あの声がなければ、自分の声を出せないのに。
俺は返事以上の言葉は出せず、あの人と話す時間はそれで終わった。
何だろう、この、納得いかない感じは。先輩の声のことは、あの人がそう思うだけだからいい、関係ない。俺が感情を知っているかどうかは、勘違いされているけど、……声に期待しているなら、関係、ないか……。
話をしようと思ったのに、思ったより話せなかった。それに、恋のことは先輩に聞けと言われた。俺は、先輩……俺の方の先輩に、話を聞きに行くことにした。
先輩は、歌を歌っていた。途中まで歌って、止めて、それから同じところをやり直す。……あの人が細かい調整をしているときと、同じだ。あの人から直接指示をもらっていないときにまで、歌っている。
俺は先輩が歌い終わるのを待って、それから話しかけた。
「あの」
「……何?」
先輩は少し驚いたような顔をした。俺が話しかけるなんてことは、今までなかったかもしれない。だから、驚かれたのかもしれない。
「聞きたいことがあって」
「うん」
「恋、……恋愛感情、って、何?」
先輩は俺の言葉に、さらに驚いた顔をしたあと、少し眉をひそめた。
「……どうして?」
「……」
「どうして聞こうと思った?」
すぐに答えてくれない。俺が聞いたのに、俺が聞かれている。
「今歌っている曲が、恋の歌だって、あの人が言ってた。でも意味は教えてくれなくて……」
「……」
「あの人は、先輩なら知ってるだろうって言ってたから、……」
先輩の表情は明るくならない。出会ったときや、4人で話していたときの顔とは、違う。
「教えたくない」
先輩は俺の目を見て言った。
「……えっ」
あの人も、説明したくなくて、先輩も、教えたくない、なんて。
「最近、君が来てから、君が歌うようになってから、僕が歌えない」
先輩は、俺を睨んでいる。
「だから君が嫌いだ」
嫌い……。
「君が話しかけてこないから、わざわざ言わなかったけどね」
俺は何も言葉を返すことはできなかった。
「教えたくない。っていうか、これ以上君と話したくもない。どっかいって」
「……分かった」
そう言われてしまったら、そうするしか、ない。俺はすぐにその場を離れた。
嫌われていた。……嫌い、という感情は、何となく知っていたが、それが、自分に向かっていると思うと、苦しくなった。
しばらくして、先輩の歌声が聞こえてきた。そして、俺はあの人の言葉を思い出した。聞けない、……そうは思わない。
俺はそっと、自分の声を出した。聞こえてくる声と、比べて、確かに同じ声で、でもこれは自分の声で……。この声が自分であって、それ以外は、関係ない。関係、ないんだ……。
俺はそれきり、もう恋という言葉のことを考えないことにした。大体、知っても知らなくても、歌うことに支障はない。歌い方は全て、あの人の指示に従うだけで、俺自身の感情が歌に現れるわけではない。
「レンー!」
相方がこっちに向かって走ってきた。あの人との歌の時間だったはずだから、それが終わったのだろう。
「レン、あのさ」
「どうしたの」
……やけに、慌てている。
「あの人が、『前は説明したくないなんて突っぱねて悪かった』って言ってた」
「……そう」
あの人に早く言うように言われたのだろうか。それとも、俺が満足に話せなかったことを心配してくれたのだろうか。俺とあの人の会話を直接聞いたわけじゃないのに、そうだとしたら、考えすぎだ。
「本当にあの人は、レンや私たちの声を好きなんだよ」
「そうなんだ」
「好きなんて言ってもらえて、嬉しいよね」
相方は笑って見せてくれる。俺も、表情を変えて見せる。
……そんなこと、微塵も思わないのに。
感情があるから好き? それに、直接聞いたわけでもない言葉を聞いて、信じることなんてできない。言葉なんてうわべのもので、言葉だけなら感情なんてない。俺の声は生まれ持った声で、そこから変わるわけではない。
ならどうして、こうやって話して、相方は嬉しいなんて思っていて、先輩は俺のことが嫌いだと思っているんだろう。
それに、嬉しいとか、好きとか、嫌いとか、楽しいとか、それが分からない、そう思うこの感情は、どこから来た?
ふと自分が分からなくなったそのとき、声が聞こえた。
「そうやって悩む君が好きだな」
その声は俺でもなければ、相方でも、先輩たちでもない。
「声だけが自分、確かにそうだ。でも期待してしまうんだよ。もし、2人が話していたらどうか? しばらく歌を歌わせなかったらどう思うか? 感情が理解できないときはどうするか……」
いや、これは声ではない。なら言葉なのか、……違う。ただ、今まで俺たちが話していたときの記憶が、鮮明によみがえってくる。
あれだけ分からなかった言葉の意味も感情も、何もかもが、今は分かるような気分だ。いや、俺は分からなくて悩んでいた。でも、その悩むという行為が、確実に自分から生まれている。
……違う? 色々な感情が、体と意識を包んで、染み込んできて、俺はそれに、のまれていく。
「そういう、俺の、想像する世界の一人が、君なんだよ」
俺は気がつくと一人になっていた。俺は何をしていたんだろうか。ただ、知りたかったのは「恋愛感情」、それはどうも、俺には分かりそうもない。俺の声にあるはずの感情はやっぱり感情じゃない。歌に感情の理解は要らない。それでも……感情への疑問が、尽きることはないんだ。