階段をのぼった階は、いつもリンとレンが使うレッスン室のある階だ。馴染みのある廊下には、ちらほらと小さな欠黒象が漂っている。リンが少し歌うと、それは消え去った。
レッスン室の前につき、そのドアを見て、リンはぞっとした。
扉と、その枠の隙間には、びっしりと黒い物質がついていた。中から染み出てきたかのようなそれは、徐々に広がり、黒い四角形になって離れ、漂う。そしてそれが、欠黒象になる。
リンが思いつく歌を歌うと、欠黒象は消える。しかし、また隙間から生まれる。らちが明かない。
怖がる暇すら、今はない。リンはドアノブに手をかけ、ドアを開け放った。
その途端、リンの耳を、何かの音が塞いだ。その気持ち悪さに耐えながら、リンはレッスン室に入り、目を疑った。
そこは、元の状態が思い出せないほど欠黒象だらけになっていた。そして、部屋の真ん中には、歌うレンがいた。
リンの耳を塞いでいる音は、確かにレンの歌声のようだ。しかし、その声にはノイズがずっと混じっている。レンは、咳き込み、何かを吐き出すように体を揺らす。がなり、乱暴に歌うそれは、普段のレンの歌い方とは、全く違う。
レンが大声を出すと、レンの服の隙間から、黒い蛾がこぼれだした。その蛾は勢いよく羽ばたき、空いた空間を黒くしていく。
「……レン、レン!」
初めはびっくりして、動けないでいたリンは、我に返ってレンに呼び掛けた。すると、レンは声を止め、リンの方を見た。睨むように見るその顔は、昨日の朝見た表情と似ている。
「レン、どうしたの、……ねえ!」
リンがレンにそっと近づくと、レンもリンに近づいてきた。リンが足を止めると、レンはさらに近づきながら、口を動かした。
「本当にその声……」
レンの声が、空間を揺らす。ノイズが混ざり、大きくなった残響が、リンの耳も体も突き刺す。
「耳障りだ……消えろ!」
その声と同時に、レンからまた、大量の黒い蛾が現れた。リンはとっさに離れたが、レンはリンの腕を掴んだ。
「レン、どうしたの、どうしちゃったの」
掴まれた腕を振り払おうとしても、レンは強く握りしめてくる。腕の肌が引っ張られて、痛い。
「お前を消したら、この世界も消せるんだよな? お前がずっと邪魔してきてたんだよな?」
レンが声を出す度に、黒い蛾が現れる。その蛾は飛び交い、そしてリンの体に止まり始めた。
怖がるリンの顔を見て、それまでリンを睨み付けていたレンの表情が変わった。嘲笑を浮かべ、そして、笑い声を漏らす。
「どうしたんだ? お前は修復者だったよな?」
「……」
そうだった。びびっている場合ではない。リンは、なんとか歌を歌おうと、声を絞り出した。しかし、ずっと続いている残響のノイズに阻まれて、声がうまく出せない。出せては、いるはずなのに、自分の声すら分からない。
そんなリンを見て、レンは笑い声を大きくした。
「無駄なんだよ!」
また、その声で黒い蛾が現れ、リンの肌の上を、蛾が埋め尽くしていく。
「消えろ、消えろ!」
レンはそう叫び、狂ったように笑い始める。蛾はとめどなく溢れ、そして、リンに止まっていた蛾は、一斉に欠黒象に変わった。
「いや……!」
リンは叫ぶが、レンの笑い声と、そのノイズで、叫び声もかき消される。
レンが笑い続ける姿を最後に見て、リンは欠黒象に飲み込まれていった。